地下鉄U7のカール・マルクス通り駅で降り、喧噪に包まれた大通りから一歩横に入る。5分も歩くと、軒を連ねる建物は背丈が低くなり、牧歌的な空気が流れる。
ここはノイケルン区のリクスドルフ(ドルフ=村)。同区の発祥ともいえる古い集落だ。1737年、ハプスブルク帝国の支配下にあった東ボヘミア地方の新教徒約600人が迫害を逃れてベルリンにたどり着いた。時のプロイセン国王、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(前回ご紹介したユグノー教徒を受け入れた大選定候の孫にあたる)は彼らの定住を認め、主にボヘミアからの農民にはこのリクスドルフに土地を与え、さらには各家庭に牛を支給する寛容な措置を取ったのである。リクスドルフ以外にも、例えばチェコ人の手工業者はベルリンの中心部に、織工はポツダム郊外のバーベルスベルクに定住した。
-ユグノー教徒たち-
新教徒たちのいわば「恩人」であるフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の銅像が立つその横に、ボヘミア村をテーマにした小さなミュージアムがある。彼らの歴史を知るにはまたとない場所だ。中庭から中に入ると、博物館の資料の収集と整理にあたっているシュテファン・ブットさんが、ボヘミアからの避難民の伝統的な衣装や信仰、住まいの様子などを親切に説明してくれた。展示品の中に、ホルンやトランペットなどの楽器があった。「チェコにはブラス(金管楽器)音楽の伝統があり、それをベルリンに持ち込んだのも彼らです。今でも復活祭の日曜日には礼拝に先立って彼らが演奏するんですよ」。
新教徒たちには自治が与えられたので、独自の生活文化が守られた。今もリクスドルフには70人ほどの子孫が住んでいるという。
「ボヘミアからの難民はドイツ語を話して、ドイツ社会にうまく適合したのでしょうか?」と、私は移民や難民問題に関する「お決まりの」質問をした。
「今のトルコ移民などと同じく、皆が普通にドイツ語を話すようになるまで3世代はかかったようです。それが1800年頃。ちなみに、1940年にマリー・モーテルという女性が亡くなると、ここでチェコ語を話す人はいなくなりました。つまり、彼らがベルリンに来て、完全に『社会に溶け込む』までにちょうど200年を要したというわけです」
ここで生まれ育った新教徒の子孫たちにとって、故郷はあくまでベルリンなのだろう。しかし、もともとのルーツとの関係性が消えてしまうのも、少し寂しい気がする。「いいえ、そんなことはありません。18世紀にやって来た新教徒の大部分は東ボヘミアの都市ウースチー=ナド・オルリーチーの郊外チェルムナ村の出身です。この縁でノイケルン区と同市の間に姉妹都市関係が結ばれ、年に1回住民同士の交流が行われているんですよ」
外に出ると、ベツレヘムの星が通りにいくつも飾られていた。今日「ヘルンフートの星」という名でドイツのクリスマスを代表するこの装飾は、18世紀チェコのモラヴィアから避難してきた新教徒の子孫が考案したものだとブットさんから聞いていたせいだろうか、見慣れた星が一際眩い光を放っているように感じられた。
(ドイツニュースダイジェスト 1月8日)
Information
ボヘミア村の博物館
Museum im Böhmischen Dorf
2005年にオープンした私営の博物館。1753年建造のかつて学校だった建物内にあり、ボヘミアからの避難民がどのようにしてノイケルンを故郷とするようになったのか、彼らの生活、信仰、手工業、教育など幅広いテーマの展示品と共に紹介している。スタッフの中に彼らの子孫もおり、個別に案内してくれる。入場料は2.50ユーロ。
オープン:木14:00〜17:00、毎月第1・第3日曜12:00〜14:00
住所:Kirchgasse 5, 12043 Berlin
電話番号:030-6874880
URL:http://museumimboehmischendorf.de
ベツレヘム教会
Bethlehemskirche
1735年、ボヘミアから逃れてきた新教徒のために現ミッテ地区に建てられた教会。1943年の空爆で破壊されたが、教会が建っていた広場には、教会の平面図に沿ったユニークなインスタレーションが設置されている。その隣に置かれた奇抜なパブリックアートは、ボヘミアからの避難民が持参した日用品を束ねた様をイメージしたもの。チェックポイント・チャーリーから徒歩数分。
住所:Bethlehemkirchplatz, 10117 Berlin