青森駅には毎日新聞青森支局の篠田航一さんが待ってくれていた。篠田さんは同紙の前ベルリン支局長。東日本大震災の直後、前任者の方から紹介され、4年間とてもお世話になった方だった。仕事の合間にカフェなどでお会いしては、ノンフィクションの書き方や取材の手法などを教えてもらったり、最近読んだ本のことなどを語り合ったのを思い出す。青森に赴任されてから一度訪ねてみたいと思っていたが、今回「はまなす」に乗るタイミングに合わせて、仕事帰りの篠田さんと再会できたのは何より嬉しいことだった。駅近くの居酒屋で、美味しい魚介や酒を味わいながら、列車の時間が近づく頃まで話に花が咲いた。
篠田さんはベルリンの支局長時代にコツコツ取材してきたテーマをすでに2冊の本にまとめている。「原発」を主題にした本はまだ未読だが、『ナチスの財宝』(講談社現代新書)は歴史を掘り起こす楽しみとミステリーの味わいを併せ持つスリリングな1冊で、大変お勧め。篠田さんはこの春からカイロ支局に赴任されるそうで、これからますますご活躍されると思う。
22時も近づいて、篠田さんに青森駅まで見送ってもらう。この駅も久々に見ておきたかったのだった。
うーん、改装ですっかり変わってしまったが、この柱の向こう側に待合室があったことなどいくつかの記憶がよみがえってくる。実は1987年(昭和62年)3月31日の国鉄最後の日の夜、私はこの駅で3時間ほど過ごしたのである。小学5年生の春休みだったこの時、国鉄は「謝恩フリー切符」という3月31日限定の全国乗り放題の切符を売り出した。子供は1枚3000円という破格の値段だったこともあり、私は同級生の友達と一緒に発売日の前夜から大船駅の窓口の前に並んで買ったのだった(翌朝には数百メートルに及ぶ行列ができていたのを思い出す^^;)。時刻表を見てあれこれ考えた結果、30日の深夜に新宿を出る中央線の夜行急行に乗って、翌朝糸魚川に抜け、あとはそこからひたすら日本海沿いに特急を乗り継いで青森を目指すプランを選んだ。もっとも、この日は同じ切符で旅行する乗りテツたちでほとんどの列車が大混雑。いくつかのアクシデントもあって、夕刻青森に着いた頃には私も友達も疲れ果てていた。テツたちの多くは夜行急行の「八甲田」で東京に帰ったようだが、座れるかどうかも定かでなかったので、私たちは「ゆうづる」のB寝台を予約していた(子供だったので1つのベッドを2人で寝ることができた)。今から思えば、3時間も待ち時間があったのだから、翌年廃止になる青函連絡船のせめて連絡通路まで行って雰囲気を感じておけばよかったなあ、などと思う。
篠田さんと別れて、3番線ホームに行くと、「はまなす」はすでに入線していた。
「はまなす」は夜行急行なのでブルートレインというには少し語弊があるけれど、このブルーの車体を見るのは本当に久々のことだった。
私が懐かしく思い出されるのは、小学生の頃よく見に行った東京駅の9番線ホーム。いまやブルーの車体の塗装はあちこちではげ落ち、すっかり疲弊しているように見えるが、それでも夜行列車の旅立ちには独特の郷愁がある。あれから30年近く経って、この「はまなす」がブルートレインとの別れの旅になるとは……。
22時18分に青森を発車。ベッドに荷物を置いてから、車内を少し見て回る。廃止が1ヶ月後に迫っていたためか、平日にも関わらず自由席やカーペットカーの乗車率も高かった。
昔ながらのB寝台車である。増結車も含めて満席だったと思う。ほとんどが乗りテツの人たちと思われた。まあ、自分もその部類に入るのではあるが^^;)
ほろ酔い気分で下段の寝台にもぐり込み、カーテンを閉めて、窓の外を眺めるのは本当にいいものだ。雪がしんしんと降っている。日が変わった頃ぐらいから比較的よく寝られたと思う。
翌朝の6時過ぎ、雪化粧をまとった「はまなす」は札幌駅の地上ホームに到着した。「はまなす」は翌3月26日に廃止され、これで一部の例外を除いて客車の夜行列車は日本列島から姿を消したことになる。
札幌ではこれといった観光はあまりしなかったが、夜に学生時代の友人と久々に再会し、ここでも楽しい時間を過ごした。
翌日の夕方の飛行機で羽田に飛んだ。次に北海道に来る時は、札幌から列車でさらに北か東の方に足を伸ばしてみたいと思うけれど、最近のJR(特に北海道)の状況を見ていると、あまり楽観的なことは言っていられない。気付いた頃には、北海道や全国から、地域の歴史と共に歩んで来た大事な路線がごっそりなくなっていた、ということにならなければいいが。
(おわり)