この原稿を書いているのは10月18日。偶然ではあるが、今回ご紹介する場所の歴史と直に結びついた日付であることにふと気付いた。今からちょうど76年前の1941年10月18日、1251人のユダヤ人を乗せた貨物列車が初めてベルリン郊外のグルーネヴァルト駅からリッツマンシュタット(現在のポーランドのウッジ)に向けて発車した。以来、第2次世界大戦の終結前まで、この街に住んでいた5万人以上ものユダヤ人が東方の収容所に送られ、その大半は帰らぬ人となった。
文明国の首都のど真ん中で、一体なぜあのようなことが起こりえたのか。そのテーマに関する記念碑が今年新しくできたと知り、9月のある日、足を運んでみた。
地下鉄U9のビルケン通り駅で降り、モアビットの住宅街を歩くこと約10分、大手スーパーLidlの裏手にその記念碑はあった。車が頻繁に行き交う通りから松の木が植えられた小道に入ると、1本のレールが敷かれている。かつてモアビット貨物駅の敷地だった場所だ。当時ここにあった3つのホームからウッジ、リガ、テレージエンシュタット、アウシュヴィッツ等のゲットーや強制収容所に運ばれた人の数は実に3万人以上。現在も残る69番線の一部であるホームの壁や小さな舗道を整備して、この記念碑が造られたという。私が立っている小道は、ユダヤの人々が「死への列車」に乗り込む間際に歩いた場所なのだった……。
当時、東方送りを言い渡されたユダヤ人は、レヴェツォウ通りの集合所に数日間収容された後、ゲシュタポの監視のもと、トラックでの輸送か徒歩でこの貨物駅に連れて来られたという。集合所から貨物駅までの約2キロの経路を示した説明プレートの地図を見ているうちに、ユダヤ人が歩いた道を逆方向に辿ってみようと思った。
クイッツォウ通り、ラーテノウ通り、ペルレベルガー通りを経てトゥルム通りへ。いずれも住宅が密集する通りであり、アパートの大部分は戦前に建てられたアルトバウだった。つまり、列をなしてぞろぞろ歩いて来たユダヤ人たちを、当時のアパートの住民は、窓から、バルコニーから日常的に目撃していたことになる。この視点に立つと、記念碑のプレートに書かれていた文面の意味が少しわかったような気がした。「この場所の歴史は、数十年以上に渡って抑圧され、なおざりにされてきた」。
約30分かけてレヴェツォウ通りの集合所跡に着いた。通りに面して貨車をモチーフにしたモニュメントが置かれ、そこからランペと呼ばれる斜面の降車台が延びている。その上の石像は無惨に殺されたホロコーストの犠牲者の塊を象徴したものだろうか。頭上に高く伸びる鉄板のプレートには、1941年から45年までの間に東に送られたユダヤ人の人数と日付が彫られ、光を浴びて浮き出ていた。
この記念碑には以前も来たことがあるが、今回は集合所と貨物駅、2つの点が線で結ばれたことによって、アパートの窓の向こう側にいた、(ひょっとしたら自分もその一人になり得たかもしれない)無数の「傍観者」の姿が浮かび上がってきたのだった。
(ドイツニュースダイジェスト 11月3日)
Information
モアビット貨物駅 追悼の場所
Gedenkort Güterbahnhof Moabit
ティーアガルテン地区モアビットにある記念碑。1987年以降、グルーネヴァルト駅やここから近いプトリッツ橋にはユダヤ人を追悼する記念碑が造られたが、この貨物駅の敷地は東独の鉄道会社の管轄下にあったため、1989年までそのようなことは不可能だった。2016年になってようやく、ベルリン市とミッテ区、市民団体が共同で記念碑のデザインに関するコンペを実施。翌年春に完成した。
住所: Ellen-Epstein-Str, 10559 Berlin
レヴェツォウ通りの警告碑
Mahnmal Levetzowstraße
かつてこの場所には1914年に完成したベルリンでも最大級のシナゴーグがあった。1938年11月の「水晶の夜」事件でナチスによって放火された後、ユダヤ人を強制収容所に送る際の集合所の役割を負わされることになった。1988年、3人の彫刻家と建築家のデザインにより、貨車とランペをモチーフにした警告碑が完成した。
住所:Levetzowstr. 7-8, 10555 Berlin