今年はショスタコーヴィチの生誕100年ということで、ベルリンでもショスタコ関係のコンサートが目白押しだ。正直、ショスタコーヴィチの音楽はどうも「絶叫」のイメージが強いのか私は少々苦手で、その世界に素直に入っていけないもどかしさを感じることが少なくないのだが、今回のベルリン・ドイツ響のコンサートには惹かれるものがあった。というのも、プログラムのメインのショスタコの交響曲第15番を、1972年の1月にモスクワでの初演を指揮した作曲家の息子マキシムが振るからだ。それだけではない。同じ年の6月には、ショスタコーヴィチの臨席のもとモスクワのオケがドイツでこの曲を演奏しているのだが(おそらくドイツ初演だろう)、その時の会場がベルリンのフィルハーモニーだった(その写真が現在フィルハーモニーのフォアイエに展示されている)。このショスタコーヴィチ最後のシンフォニーは、「死」をテーマにしたもので、彼はその3年後に亡くなる。あと、これはまあどうでもいいことだが^^;)、私が生まれたのはショスタコーヴィチが亡くなった2日後である。そんなことを考え出すと、聴きに行かずにはいられない気持ちになってきた(15日。フィルハーモニー)。
写真で見るショスタコーヴィチは威厳に満ちているので、何となく息子も同じ雰囲気の人かと思っていたが、全然そうではなかった。もう70歳に近いのに、動きは機敏だし、指揮台にも駆け足気味でやって来るほど。どうもあまり落ち着きのある性格ではないのかもしれない(笑)。指揮ぶりも何となくつかみどころがないというか、少なくともあまり見やすい棒ではなさそうだ。実を言うと、前半のモーツァルトは少々退屈してしまった。
しかし後半のショスタコーヴィチはやはりよかった。この前、ピアニスト、ピエール=ロラン・アイマールによるコラージュ・コンサートのことを書いたけれど、ショスタコーヴィチ最後の交響曲はまさにそれ自体がコラージュのような作品で、過去の作曲家からの引用が次々に出てくる。まず有名なのが、ロッシーニのウィリアム・テル序曲からの引用。この日の前プロはまさにウィリアム・テル序曲だったこともあって、あのメロディーが流れるとお客さんの間からはくすくす笑い声が聞こえてくる。その他にも、シェーンベルク、マーラー、ワーグナーなどなど。4楽章、パッサカリアで曲が膨れ上がった後、高らかに鳴り響くのがハイドン最後の交響曲「ロンドン」の冒頭、というのも何やら暗示的だ。マキシム氏の演奏では、全体の流れがここに向かって構築されているように感じられた。
不思議な音楽だ。ショスタコーヴィチが「死」をテーマに書いた曲なのに、「絶叫」が少ない。代わりにあるのは、「皮肉」や「自己を冷静に見つめる目」というものだろうか。ソロ楽器の比重が高い一方で、トゥッティ(全奏)の時間が短いのも特徴的。打楽器による謎めいた終わり方も何とも言えない。プログラムによると、ショスタコーヴィチは死についてこのように語っていたそうだ。
死への恐怖は、ひょっとしたら人間が持つ最も強い感情かもしれません。これより深くて内向的な感情はないと私は時々思います。死の恐怖の圧迫のもと、皮肉にも人は偉大な詩や音楽を創造します。つまり、死の恐怖が生への結び付きを強め、生への影響力を高めるのです。死の恐怖につけこませてしまってはだめで、それに慣れなければなりません。そのための一つの方法が、死について書くことです。
死を否定することは無駄です。それでも人は死ぬからです。しかし、死を理解するということは、死に屈するということではありません。私は死に屈しません。死を賛美しません。死に抵抗もしません。私が抵抗するのは、人々を処刑するような虐殺者に対してです。
終演後、カーテンコールで再び舞台に現れたマキシム氏が、父親が書いたシンフォニーのスコアを両手で高々と掲げていたのが印象的だった。
PHILHARMONIE
So 15. Okt 2006 20 Uhr
Deutsches Symphonie-Orchester Berlin
Maxim Schostakowitsch DIRIGENT
Arabella Steinbacher VIOLINE
Gioacchino Rossini Ouvertüre zur Oper Guillaume Tell
Wolfgang Amadeus Mozart Violinkonzert Nr. 1 B-Dur KV 207
Dmitri Schostakowitsch Symphonie Nr. 15 A-Dur op. 141
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スタンディングオベーションのお写真のスキンヘッドさんなどは東からの方のように見えますね。「人々を処刑するような虐殺者に対して」をプログラムに入れてくるのは、このソヴィエトを代表する作曲家の現在のドイツでの典型的な受容かと思います。昨日からこの作曲家の交響曲全集CDを聞いているのですが、仰る絶叫に緊張が置き換えても良いようです。すると、その様相のミクロ的なあまりためにならない楽曲分析よりもその緊張の源泉をマクロ的に捉えられるのではないかと考えるようになりました。ラトルの解釈でもそこの絶叫は不可解この上ないものでしたが、そこがこの作曲家の全てという印象を受けています。
PS. TB不可能のようです。
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>pfaelzerweinさん
TB、やはりダメでしたか。原因がよくわからないのですが、申し訳なく思っています。私はショスタコーヴィチのことはあまり詳しくなく、ドイツにおいてこの作曲家がどのように受容されているのかもよく知らないので、残念ながら適切なコメントができそうにありません。どちらかと言うと私は、この作曲家の交響曲よりは弦楽四重奏曲に興味があり、これから1曲ずつ聴いていきたいと思っています。