クロイツベルク時空散歩(4) – あるユダヤ人女性の記憶 –

St-Michael-Kircheにて(2月24日)
前回お話したクロイツベルクの子供農園を見た後、私たちは再び聖ミヒャエル教会に戻った。「天使の池」のほとりに立つミヒャエル教会は1851年から61年にかけて建てられたベルリンでは珍しいカトリックの教会である。実はこの教会、正面から見ただけではなかなか気付きにくいが、1945年の2月3日の空襲によって廃墟と化したそのままの状態で立ち続けている。ツォー駅前の有名な記念教会以外にも、こういう教会がベルリンにはいくつかある。
ミヒャエル教会の裏は広場になっている。DDR時代の無機質なアパートが立ち並ぶ、私の目には何ということのない場所だった。この場所にやって来て、メヒティルトさんは「どうやって説明しようかしら」とちょっと考え込んでから、あるエピソードを私に話してくれた。それほど長い話ではないのだが、これは彼女から聞いた中でも最も印象に残る話の一つなのでここに書いておきたいと思う(実際はかなり長くなりましたが、ぜひ読んでいただきたいです)。
メヒティルトさんの父親ルドルフさん(1905年生まれ)の家族と彼の祖母は、戦前このミヒャエル教会広場のすぐ近くに住んでいた。祖母の旦那さん(つまりルドルフさんの祖父)は、19世紀末の冬のある日グルーネヴァルトにスケート遊びに行った際に雪崩で命を失い、彼女はそれ以来未亡人だったという。お互いの家はそれほど離れていなかったので、当然のことながらルドルフさんが子供の頃、母親に連れられてよくこのおばあさんの家に遊びに訪ねていたという。
さて、ここから時代は一気に飛ぶ。
ベルリンが瓦礫の山と化した1956年(あるいは57年)のこと、ルドルフさんはベルリン郊外のクラドウ村のペンションで休暇を過ごしていた。彼は仕事が多忙で長期の休暇が取れなかったため、せめてハーフェル川のほとりの静かなクラドウ村で短い休暇を、ということだったらしい。そこの宿で、ルドルフさんはある年老いたユダヤ人の女性に出会った。
その女性はシュタインという苗字だった。シュタイン夫人はルドルフさんに、自分がベルリーナーであること、ナチスによるユダヤ人迫害が始まってからまずブダペストに、そしてその後上海に逃れた体験を語った。「ベルリンはどこに住んでおられたのですか」とルドルフさんが尋ねると、「ミヒャエル広場教会ですよ」とシュタイン夫人は答えた。「え、その広場の何番地ですか?」
シュタイン夫人が番地名を言うとルドルフさんは絶句した。「シュタインさん、私の祖母がまさにそのアパートに住んでいたんですよ。最上階の4階に住んでいた女性のこと、記憶にありませんか?」
シュタイン夫人の返事は「ナイン」だった。そんな昔のこと覚えているわけがない、という表情をしたという。
翌朝、シュタイン夫人が目を真っ赤にさせてルドルフさんのもとへ駆け寄ってきた。「あの後もう一度昔のことを思い出そうとして、昨晩はほとんど眠れなかったのよ。そしてついに思い出したの。あなたのお母さんがあなたを乳母車に乗せてあのアパートをよく訪ねて来たときのことをはっきり覚えているわ!」
シュタイン夫人が思い出したというのはこういうことだった。
1900年代、今からちょうど100年ぐらい前の話である。シュタイン夫人はミヒャエル教会広場のアパートの地上階(日本でいう1階)に住んでいた。そのアパートをルドルフさんの母親が彼を乳母車に乗せてよく訪ねて来ていた。ちょっとした用事(例えばものを届けに来たというような)のとき、乳母車を4階まで運ぶのは大変なので(もちろん備え付けのエレベーターなどなかった)、幼いルドルフさんを乳母車に乗せたまま「ちょっと子供を見ていてもらえませんか」とシュタイン夫人の部屋のドアをノックすることがあったという。そのことを約50年ぶりに思い出したのだ。
「私はあなたのことを覚えているわ。こんなに大きくなって・・・」と言って、シュタイン夫人は笑った。
当時乳母車に乗っていたルドルフさんは50代前半になっていた。2人はその間、2度の世界大戦を経験し、ホロコーストを命からがら逃れたシュタイン夫人はブダペスト、上海を経由して再び故郷のベルリンに戻って来ていた。それがどんな苦難を伴ったものであるかは知る由もないが、何という長い道のりだったことだろう。ルドルフさんは当時すでに高齢だったシュタイン夫人に再び会うことはなかったという。だが、この再会が奇跡的なものであることに変わりはない。小さなエピソードかもしれないが、私には人間の記憶の尊さを何か示唆しているように感じられた。
そのミヒャエル広場教会からほど近い場所に、ルドルフさんの1人娘であるメヒティルトさんは戦後間もない1949年に生まれた。戦後この地区はぎりぎりでソ連セクトに属することになった。今もDDR時代の街灯が通りを照らしている。自分が今いる場所がかつての東側か西側かわからないとき、ベルリンでは街灯が道しるべになってくれることがある。
これは1954年に撮られたこの界隈の空撮。手前の「天使の池」の左手にミヒャエル教会が見える。その隣のミヒャエル教会広場が完全に焼け野原になったのをはっきり見て取ることができる。ミッテのこの界隈は爆撃の被害が最も大きい地区だった。この写真のことは次回またお話したいと思う。
メヒティルトさんから自分が写っている1枚の貴重な写真を見せてもらった。おそらく1950年の夏に撮ったものではないかということ。背後に注目していただきたい。当時ベルリンでは、瓦礫の山から、使えるレンガとそうでないものを分別するという気の遠くなるような作業が至る場所で行われていた。
時空を越えたクロイツベルクの散歩はあと2回ほど続きます!



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6 Responses

  1. ひろと
    ひろと at · Reply

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    事実は小説より奇なりと申しますが、まさにそれですね。それにしてもメヒティルトさんの記憶力は凄いですね。私には子供心に戦争の記憶がかすかに残っていますし、ベルリンの生々しさがまだ強いので、複雑な気持ちで読ませていただいてます。過去のロマンを追う旅をしていて、まだベルリンには行ったことがありませんが、現実に目を背けてはいけないと思ってはいます。

  2. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    >ひろとさん
    コメントありがとうございます。ひろとさんは子供時代に戦争を経験されているのですか。どういう記憶が残っているものなのか、興味があります。メヒティルトさんは戦後世代の方ですが、本当によく昔のことを記憶されていて驚きます。今いる自分が街の歴史や過去の人々とどういうつながりを持っているかということに強い興味を持っている方じゃないかと思いますね。

  3. gramophon
    gramophon at · Reply

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    凄い偶然ですね。うちは明治から続く「すき焼屋」なんですが(私が5代目に当たります)、たまに、遺品の整理で出て来ました、と店の名入りの袢纏をよこしてくれたり、若い頃失敬したお猪口を返しに来てくれたりする人が現れます。突然の遺物で、大昔に戻らされて吃驚することがあります。

  4. Aya
    Aya at · Reply

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    人が生まれてから死ぬまで、かかわりあう人は決まっている、つまりかかわりあう人すべてに縁がある、という話があります。前世(過去)からの貸し借りを、清算しあってよりよく生き、それを上手く起動させるために大きなグループに分かれていて、その中でたすけあってお互いに影響しあい、向上していくという一説。実際、人は自分の意志で動き勝手なことをしているわけなのですが、この説が本当であってもなくても、「一期一会」という考えが如何に大切か、この話を読んで、そんなことをふと思いました。ルドルフさんも、シュタイン夫人もお互いに立ち止まって、相手に興味を持ち、お互いに自分の話をしなければ、過去には会っていなかった(も同然な)のですから。人との出会いとは、心を開いたときにこそはじまるのだということに気づかされます。
    追伸 gramophonさんのお話もなんだかステキですねえ。

  5. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    >gramophonさん
    >うちは明治から続く「すき焼屋」なんですが

    素敵なエピソードをありがとうございます。明治時代から続くすき焼屋さんですか。当時はさぞかし斬新だったのでしょうね。平成の時代まで続くなんてすごいことだなと思います。機会があったらいつか食べに伺いたいです。

  6. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    >Ayaさん
    含蓄のあるお話ですね。

    「人が生まれてから死ぬまで、かかわりあう人は決まっている、つまりかかわりあう人すべてに縁がある」、「一期一会」、「人との出会いとは、心を開いたときにこそはじまる」

    いずれも大事な言葉として記憶に留めておこうと思います。ありがとうございました。

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