ハッケシェヘーフェの隣にあるHaus Schwarzenbergの入り口
Sバーンのハッケシャー・マルクト駅から徒歩2分ほど、ローゼンターラー通り39番地にその場所はある。ハッケシェヘーフェとローゼンヘーフェという観光客がひっきりなしに集まる小綺麗なスポットに挟まれたこの入り口には、しかし同様に人の往来が途絶えることはない。壁にびっしりと描かれた落書きに興味本位からカメラを向ける若い観光客、そして頻繁にやって来るガイドツアーのグループ。とにかく何かが「におう」場所であることは多くの人が感じている。
入り口から中庭に抜けると、一気に数十年ぐらい時代をさかのぼった感覚を味わうだろう。外壁のはがれ具合はこの建物が歩んできた歴史を物語る。小さな映画館、ギャラリー、クラブなどを収容するこの「ハウス・シュヴァルツェンベルク」は、現在文化財に指定されており、華やかなこの界隈の中であえて改装せずに残してあるのだ。
中央がオットー・ヴァイト盲人作業所博物館の入り口
オットー・ヴァイト盲人作業所の博物館は、その中庭の一角にある。階段を上って2階に行くと、外観とは打って変わってきれいに改装された空間があった。ドイツ人のオットー・ヴァイト(1883〜1947)は、ほぼ全盲になった後、ほうきやブラシを製造する小さな工房を創業した。時はすでにナチスによる反ユダヤ人政策が着々と進められていたが、1940年に工房がローゼンターラー通り39番地のこの地に移ってからも、反ナチの彼は主として盲目と耳の聞こえないユダヤ人約35人を雇い続けた。当然大変なリスクを伴う行為だったが、納入先の中には国防軍もあったため、ヴァイトは「国防上重要な」製品を作っているからと主張し、時にはゲシュタポに賄賂を手渡して、ユダヤ人の同僚が強制収容所に送られるのを防ごうとした。1942年以降、ついにこの工房のみならず、ベルリンの多くのユダヤ人が中継収容所のテレージエンシュタットに送られるようになる。ヴァイトはそれでも、収容所に物資を送るなどして、彼らを救うためにあらゆる手段を講じた。(つづく)
(ドイツニュースダイジェスト 3月11日)
印象に残った展示品の1つ。1943年11月、盲人作業所で働いていたゲオルク・リヒトがテレージエンシュタットからベルリンのオットー・ヴァイトに宛てた「荷物受け取りの確認葉書」。個人的なメッセージを書くことは許されていなかったが、リヒトは宛先の下にKartoffel-Grosshandel(ジャガイモ卸売業)とさりげなく記すことで、食べ物を送ってほしい旨を暗に伝えようとしたという。彼は44年7月にアウシュヴィッツで殺害された。一方、娘のアリスは奇跡的な生還を果たした。