ホテル・ボゴタが廃業になって早2週間。一般公開となった最終日(12月1日)は、ホテルの最後の姿を見る地元の人、ホテルの調度品を買い求めたり競売に参加したりする人で溢れかえっていた。私はその後もう一度、オーナーのリスマンさんに用事があってホテルに出向いたのだが、ロビーだった場所には取り外されたランプや椅子などが所狭しと置かれ、「本当に終わってしまったんだなあ」という思いを新たにした。感傷的になってもしょうがないけれど、自分が最後に泊まった11月27日に時計の針を戻して、ホテルの記録の続きを残しておきたいと思う。
私がボゴタをが好きだったのは、各階ごとにサロン風の自由に使えるスペースがあったことだ。サロンといっても、この奥には客室があり、通り抜け可能な「公共的」な場所であることには変わりないのだが、7月に初めてここに泊まったとき、いろいろな場所で本を読むのが楽しかった。ここは1階(日本でいう2階)のフリースペース。
こちらは2階のフリースペース。1階のと似ているようで、調度品も色合いも微妙に違うのがいい。
これは2階の片側の客室へ入る際に通るドア。BOGOTAの後にHoの文字が見える。以前リスマンさんに案内していただいたときに教えてもらったのだが、リスマンさん一家が家族経営でホテル・ボゴタを始める以前、この階にあった別のホテルの入口の名残なのだそうだ。
上の階に上がるにつれて、末宗美香子さんの描いた絵が姿を現す。この出会いがまた楽しい。
2階にあるサロンルーム。ここは本格的な「サロン」と呼べる雰囲気を持った部屋だ。1942年、シュリューター通り45番地のこの建物はナチスにより接収され、ナチスの「帝国文化院」(Reichskulturkammer)が置かれた。帝国文化院のトップだったHinkelという人のオフィスは、まさにこの部屋にあったという。
私たちが泊まった3階にあるフリースペース。第2次世界大戦中、「帝国文化院」は検閲活動などを行い、ここに多くの人事記録が残っていたことから、終戦後は非ナチ化審議の舞台となった。Hotel BogotaのHPの中にあるホテルの歴史を記したページを読んで今知ったのだが、実際に非ナチ化審議が行われたのが、この3階だったという。私が最後にたまたま泊まった3階に、かつて指揮者フルトヴェングラーも現れたのかと思うと、これも何かの縁かと思ってしまったりもする。
そして4階。吹き抜けのLichthofに面して、愛すべき短い廊下があり、窓からは中庭を見下ろせる。ここを通り抜けずにそのまま横に進むと、一際天井が高いスペースにぶつかる。
ここはホテル・ボゴタの中でも、特別な空間だ。壁の全面にモノクロの古い写真が飾られている。この4階と5階に、1934年から38年にかけて、女流写真家のYVAがアトリエと住居を構えていた。YVAは芸名で、本名はElse Ernestine Neuländer-Simon。1900年にベルリンに生まれたイヴァは、25歳ですでに最初のアトリエを構え、売れっ子のファッション写真家として彼女の写真は多くの雑誌や新聞に掲載された。
1936年から2年間、YVAの見習いとしてここで写真の修行を積んだのが、ヘルムート・ノイシュテッター。後にヘルムート・ニュートンの名で世界的に有名になる写真家だ。
イヴァもニュートンもユダヤ系ドイツ人だった。ナチスの台頭により、ニュートンはドイツを離れたが、イヴァは職業を奪われた後もベルリンのユダヤ病院に勤務し、ドイツに留まった。結果、イヴァと夫は1942年6月、ソビボル強制収容所(現ポーランド)に送られ、そこで殺害されたとされている。
2002年、ヘルムート・ニュートンは久々にベルリンのかつてのアトリエ、つまりホテル・ボゴタを訪れた。イヴァの元で過ごした2年間を、「自分の人生でもっとも幸福な時代」と彼は後に語ったそうである。
こういった数々の歴史的な場所を、このホテルのオーナーは、愛情を持って彩ってくださっていたように思う。常にどこかで展覧会やコンサートが開かれ、宿泊客以外の客人もホテルはおおらかに受け入れてくれた。人と人とをつなぐ、開かれた文化の場でもあった。この建物が今後どんな形で残るかはまだ決まっていない。
サロンで静かな時間を過ごした後、自分の部屋に戻る。2002年にヘルムート・ニュートンがここを訪れた際に残した言葉” You are sleeping in holy rooms “を想いながら夢の眠りへ・・・。
(と言いたいところだが、部屋の暖房が十分に効いておらず、寒さに震えながら寝ることになったのだ)
(つづく)