ダム・トーアと呼ばれる門が、鉄道でユーターボークに来る場合の街の入り口になる。ユーターボークの帰属は何度も変わっている。30年戦争期間中の1635年、この街はザクセン選定侯領に組み込まれた。そして1756年、プロイセンのフリードリヒ大王はザクセンとの国境に近かったユーターボークに進軍したことで、7年戦争が始まった。次にこの街が歴史の表舞台に出てくるのは、19世紀になってから。1813年9月6日、ナポレオン解放戦争の最中、ユーターボークのすぐ西側のデネヴィッツ(Dennewitz)において「デネヴィッツの戦い」が行われた。この戦いで連合軍はナポレオンのベルリン進軍を完全に食い止め(わずか1日の戦いで、両軍合わせて約2万人が戦死している)、1ヶ月後のライプツィヒの戦いでナポレオンのドイツ支配は終わりを告げたのだった。1815年のウィーン会議の結果、ユーターボークを含めたザクセン王国はプロイセンに譲渡されることとなる。
門の近くにソ連軍の名誉墓地があった。第2次世界大戦末期の1945年4月18日、ユーターボークはアメリカ軍に空爆されたが、旧市街は幸い無傷だった。その2日後、赤軍が大きな戦闘を行うことなくこの街を占領。以来、ユーターボークは赤軍の駐屯地となり、彼らが完全に撤退したのは1994年になってからのこと。
ユーターボークの歴史を振り返ってみると、血なまぐさい争いの過去に彩られつつも、ほんのわずかのところでこの街は破壊から守られたことがわかる。これだけ人通りが少ないと、どうもわびしい気分から抜けられないけれど、ベルリン・ブランデンブルク州において希有な街なのは間違いない。
Mönchenkircheという大きな教会の前に出た。ここが一応ユーターボークの文化の中心とパンフレットに書いてあるので、扉を開けてみたら、驚いた。ようやくここでまとまった数の人に出会えたのだった。中には舞台があり、ニューイヤーコンサートの休憩時間中らしかった。地元の人びとが談笑したり、コーヒーを飲んだりしている。小さな街の住民の大半がここに集まっているのではないかと思ったほど。何はともあれ、ユーターボークで人のぬくもりを感じることができて、少しほっとした。
数は少ないものの、廃屋になっている建物もいくつか見かけた。東ドイツ時代、建物の外壁はどこもこんな感じだったのかもしれない。
ひっそりと眠ったような街だったが、30年戦争以来の名残をとどめながら、ほかのベルリン・ブランデンブルクの都市では味わったことのない悠久の時が流れていた。
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遅ればせながらあけましておめでとうございます。
新しい街のご紹介ありがとうございます。
写真から古い街並みの空気までもが感じられるようでした。
アクセスなど観光には不向きかもしれませんが、こういうところにこそ建物だけない、人や雰囲気などの歴史の名残を感じられそうで一度行ってみたいです。ひとりだと不安になりそうですが・・・。
今年もブログを楽しみにしています!
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かどさん
コメントありがとうございます。ユーターボーク、ベルリンから日帰りで行ける場所としては一見の価値はあると思いますが、ライプツィヒ、ドレスデンに比べるもなく、これからもおそらく観光地にはならないでしょうね。
とはいえ、半日の滞在であれほどの歴史的遺産に触れられたのは、なかなか得難い経験でした。ブランデンブルク州にはまだまだ知られざる面白い街がありそうなので、これからも少しずつ発掘していきたいと思っています。