11月4日、アレクサンダー広場で平和革命30周年祝祭週間のオープニングセレモニーが行われました。広場に面した建物のファサードには、ゴルバチョフやホーネッカーら当時の首脳をはじめとする歴史的映像が映し出されます。ベルリンのミヒャエル・ミュラー市長は当時の東独市民の勇気を讃え、「ベルリンは自由の都市として、今後もあらゆる差別や排除と闘う」と挨拶のなかで述べました。
1989年の同日、この広場に50万人近い市民が集まり、民主化を求めてデモ行進を行いました。その5日後、ベルリンの壁が崩壊。今回の30周年祝祭週間では、アレクサンダー広場以外に、シュタージ(秘密警察)本部、ゲッセマネ教会、王宮広場、イースト・サイド・ギャラリー、ブランデンブルク門、クーダムという当時重要な出来事が起きた場所を舞台に野外展示が行われました。
西側の目抜き通りクーダムから近い、ブライトシャイト広場の展示を見に行きました。大きなパネル写真に写る、1989年11月9日の深夜から翌日にかけて、初めて西側の世界に乗り入れた東独市民の歓喜に満ちた表情は、今も鮮やかです。
祝祭週間中、私は当時を知る数人の方に話を伺ったのですが、そのうちの2人は、あの夜偶然この通りに居合わせていました。「夜に、広報担当官のシャボウスキーの記者会見をテレビで見た後、夫が『すぐにブランデンブルク門へ行こう』と言うので、家族で向かいました。東側から見るブランデンブルク門はまだ静寂に包まれていて不気味だったけれど、その後クーダムに行ったら、人、人、人。カフェ・クランツラーの交差点から3時間出られなかったわ」(西独出身70代女性)。「テレビを付けたら、西ベルリンのモンパー市長が『明日西に来られる東独市民の皆さん、公共交通は無料に……』なんて話しているから、『一体何のこと?』と。それからボルンホルマー国境検問所を越えて、クーダムに行きました。壁を初めて西側から見た時は、最高の気分でした」(東独出身60代女性)。
2人が共通して表現した言葉は「Wahnsinn(信じられない)」。あれから30年経った今、感慨もさまざまです。「本当の敗北者は西ベルリンよ。だって、それまでの独特な地位を失ってしまったんですから」(西独出身女性)。「壁崩壊時、私は27歳。奨学金を得てベルリン自由大学で勉強できたのは幸運でした。でも、私の両親は失業し、年金も少ない額しかもらえなかった。今も残る東西間の経済的、社会的格差は受け入れられません」(東独出身女性)。
時にユーモアを交え、時に静かな怒りも込めながら、彼らは話してくれました。東独出身の女性は、「それでも平和革命は正しく、重要な出来事だった」と力を込めました。そのことを前提に、東西間の溝について議論をスタートすべきなのだと思います。
(ドイツニュースダイジェスト 11月15日)