パラス通りの防空壕 - 天使の降りた場所(17) –

Pallasstraßeの地上防空壕にて(2006年7月21日)
シェーネベルクのパラス通りに今もそびえているコンクリート製の巨大な地上防空壕(Hochbunker)の前に私が初めて立ったのは、昨年のワールドカップの決勝戦の翌日だったと思う。この通りはそれまで自転車で何度も通っていたのに、私がその存在に気が付くことはなかった。ご覧のように極めて無機質かつ地味な外見であるし、その上に幾煉も建つ集合住宅に組み込まれているので、大きさの割には目立たないのである。
改めてこの前に立ってみると、その威容にはやはり圧倒されるものがあった。建物の表にはシダが生い茂り、長い年月の経過を物語っている。本来の目的を失った防空壕は、ひたすら静かにその場に佇んでいるという感じだった。
実はこの防空壕は第2次世界大戦の末期、当時のソ連領から強制連行されてきた人々によって建てられたものなのである。建設が始まったのは、前回お話したこの向かいの「スポーツ宮殿」でゲッペルスが総力戦演説を行った約半年後のことだった。
私はいろいろ調べていくうちに、ゾフィー・ショル学校(Sophie-Scholl-Oberschule) のHPを見つけ、そこに防空壕の歴史が細かく書かれていた。ゾフィー・ショル学校はほぼ日本の高校に相当し、この防空壕に隣接した場所に建っている。数年前から学校の生徒たちは、自分たちの身近な場所にある歴史の負の遺産を通じて、あの時代を忘れないようにするための課外授業に取り組んでいるのだそうだ。そもそもそのプロジェクトは、ある日ふと送られてきたウクライナ人の兄弟からの手紙がきっかけだったという。それがとても興味深かったので、自分なりに再構成して以下に内容をまとめてみようと思う。
1994年6月、ゾフィー・ショル学校にウクライナ在住のマリア・デレブヤンコという人から一通の手紙が届いた。宛て先はこうなっていた。「パラス通りとIsholf通りの角にあるアウグスト学校の校長先生へ。ドイツ連邦共和国」
実はマリアと兄のワシリーは、当時それぞれ12歳と16歳だった1943年の春、他の家族と共にソ連領のウクライナからベルリンに連行され、この防空壕を作るための強制労働をさせられたのだった。1945年5月の終戦と共に一家はウクライナに戻ることになる。それから長い月日を経た後の1990年代の初頭、ドイツ政府が戦争中に強制労働を課されていた人々に対して補償金を支払う意思があるというニュースを彼らは耳にした。2人はそのための手続きを踏もうとしたが、申請のためには「オストアルバイター」として働いていたことを示す資料が必要という。だが2人は思った。そんなものがどこにあるかなんて、今さら誰が知っているというのだろう?
当時、マリアとワシリーは建設中の防空壕に面したアウグスト学校を収容施設として住んでいた。「あの学校はまだあるに違いない」 2人はそう思い、もっとも住所など知る由もないので、宛て先は上記のような書き方になった。強制労働のためにベルリンに連れて来られた2人は、当時自分たちがベルリンのどこにいたのかもわからず、学校が爆撃された夜付近の住民の会話の中に「アウグスト学校」という言葉がたまたま出てきたことによって、ようやく自分たちの居場所を知ったのだった。
学校の名前は「アウグスト」から、反ナチ運動を象徴するヒロイン「ゾフィー・ショル」に変わっていたが、郵便屋さんはこの手紙をちゃんとゾフィー・ショル学校に届けてくれた。そして、学校側はこの不可解な宛て先の手紙をぞんざいに扱うことなく、誠意を持って対応した。マリアとワシリーは今でもそのことに感謝しているという。
その後、ゾフィー・ショル学校の歴史の教師とデレブヤンコ家との間で手紙のやり取りが始まった。ついにはウクライナに住む彼らの生活を支援するプロジェクトが発足し、マリアとワシリーが学校に招かれることになった。1996年5月、2人がベルリンのリヒテンベルク駅に降り立つと、69歳となった兄のワシリーは何はともあれまずシェーネベルクの防空壕を見たいと願った。彼は実に51年ぶりに、かつて自分が建設に携わった防空壕の前に立ったのだった。その時の気持ちは忘れられず、生きているうちにこのような形でこの場所に招かれることになるとは思わなかったという。
マリアとワシリーは自分たちの体験を、ゾフィー・ショル学校の生徒たちに話して聞かせた。1日12時間の過酷な労働と慢性的な空腹状態。ベルリンへの空爆が激しくなるにつれて、学校の地下へ避難する必要性が増えていく。しかし、ドイツ人の住民が地下に避難できたのに対して、オストアルバイターたちは危険な上の階に連れて行かれた(元々の学校の生徒たちはこの時すでに安全な地域に疎開していた)。とりわけ1945年の2月2日から3日にかけての爆撃はすさまじく、多くの人が亡くなった。2人の頭には助けを求める人々の叫び声が長い間こびりついて離れなかったという。
兄のワシリーは、アウグスト学校にやって来た日のことから始まる当時のことを非常によく記憶していた。彼は近くのノレンドルフ広場駅に行って、ポーターとしていくばくかの金を稼いだり、食料の配給券をもらおうと試みたことがある。しかし東からの強制労働者は「OST(東)」と書かれたユニフォームを着ることが義務付けられていたため、人々から拒否反応を受けることも多く、「くそったれロシア人」と罵られることもあった。一方で、パラス通りに住んでいた当時14歳のある住民は、家の前にオストアルバイターたちがたむろしている光景を覚えている。だが、彼らがアウグスト学校の施設に抑留されている人々だとは知らなかったという。
ゾフィー・ショル学校とデレブヤンコ家との交流はその後も続き、生徒たちもさまざまな活動に取り組んだ。防空壕の至る所に、かつてここで労働させられた人たちの声を記したプレートがドイツ語とロシア語の両方で掲げられているが、これも生徒たちの案だという。
戦後、パラス通りの防空壕は連合軍が爆破を数度試みたが、あまりに頑丈にできているため壊すことができず、結局そこに残された。1970年代に入って、防空壕の上に大きな集合アパートが建てられた。かつてのスポーツ宮殿(Palast)の跡地であること、そしてそのアパートには社会保護を受ける多くの外国人が住んでいることから、「社会宮殿(Sozialpalast)」などと呼ばれている。いずれにせよ、歴史の亡霊はいまもパラス通りに立ち続けているわけだ。
マリアとワシリーは強制労働者の証明書をドイツでもらうことができたが、肝心のウクライナの役所の対応がひどく、補償金はいまだもらえていないとのことである。
(敬称略)



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8 Responses

  1. Kaninchen
    Kaninchen at · Reply

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    こういった歴史があったのですね。しかし、学校の生徒たちは、自分たちの身近な場所にある歴史の負の遺産を通じて、あの時代を忘れないようにするための課外授業に取り組んでいる、というのがまたすごい話しですね。
    それに比べウクライナの役所の対応!この対比には考えさせられてしまいます。

  2. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    >Kaninchenさん
    コメントありがとうございます!
    こういう身近な場所に実はこういう歴史が眠っていた、ということから入っていけば、多くの生徒が興味を示すと思います。「ベルリン・天使の詩」にこの防空壕が出てきたおかげで、私もいろいろなことを知ることができ感謝です。

    ウクライナの役所はとにかく官僚的でひどいのだそうです(旧ソ連ですから想像はつきますが・・)。その間に彼らはどんどん歳をとっていくわけですから、何とかならぬものかと思います。

  3. Ken
    Ken at · Reply

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    ・学校の名前をたまたまきいた。
    ・ドイチェポストがちゃんと郵便を届けた。
    ・歴史の先生が手紙に対応した。
    歴史が偶然によって発見されたんですね。
    でも内容の重みからすると、必然だった
    と思ってみるのもいいかもですよね。
    (敷衍させて僕がこの記事読んだことも含めて)

  4. ぷりんつ・あるぶれひと
    ぷりんつ・あるぶれひと at · Reply

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    う~ん、思わぬところで戦時下のエピソードを学習できました。やはり1945年の2月3日の空襲の話がでてきましたか。【死者2,541人、家を失った人約120,000人、旧王宮及び大聖堂焼失】

    写真を拝見いたしますと、建物の無機質かつ地味な様子が、改めて伝わってきますね~
    ところで、この防空壕は、アンハルター駅舎跡周辺の防空壕や、フンボルトハイン公園の高射砲塔のように、中を見学できたりするものなのでしょうか??

  5. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    Kenさん、コメントありがとうございます。
    >歴史が偶然によって発見されたんですね。
    私がこの話をおもしろいと思ったのが、まさにそれなんです!
    偶然が重なって歴史が掘り起こされ、語り部と若者とのビビットな交流が生まれる。書かれたものを読んだだけなので何とも言えない面もありますが、高校生にとっては生きた授業になったと思いますよ。

    >でも内容の重みからすると、必然だったと思ってみるのもいいかもです>よね。
    そうですね。確かにそうかもしれません。

  6. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    >ぷりんつ・あるぶれひとさん
    >死者2,541人、家を失った人約120,000人、旧王宮及び大聖堂
    >焼失
    王宮と大聖堂はまさにこの空襲で消失したのですか。最近読んだ「ベルリン戦争(朝日選書)」という本によると、ヴェルトハイム百貨店もこの日にやられたそうです。

    >中を見学できたりするものなのでしょうか??
    できません。ベルリンには歴史的な記念碑を公開する日が年に一度ありますが、そのような時かよっぽど何か特別な機会でないと、内部を公開することはないと思われます。

  7. gramophon
    gramophon at · Reply

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     以前、Goebenstr.に住んでたので場所は覚えています。あまりに頑丈に造った防空壕で壊すことができなかった、と当時教わりました。そんな物語があったんですね。

  8. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    >gramophonさん
    Goebenstr.というと、ポツダム通りをはさんだパラス通りの真向かいですよね。あの辺にお住まいだったとは!あの頃のポツダム通りは、いまと全く違う雰囲気だったと聞きます。機会があったら当時のお話もいずれ聞かせてください。

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