九州・山陽紀行(4) – 松陰先生の丘 –

旅行から1ヶ月以上経ってしまったので、そろそろこのシリーズはそろそろ終わらせたく、駆け足でいきます(笑)。
12月24日、萩での2日目。宿の裏手に広がる菊ヶ浜の海岸線に沿って駅の方角に歩いて行った。前日と違って素晴らしい天気。かつて萩城があった指月山(写真)を背後に、そろそろバス停かなというところまで来た頃、地元の老人夫婦に出会った。「あんた方、どこから来たの?」から始まって少し立ち話になり、これから松蔭神社まで行くと言ったら、停めてあった車に乗せてくださることに。おじいさんは確かもう80歳を越えていたはずだ。運転は少し危なっかしかったが、短い時間の中で、萩のことや自身の戦争体験などを語ってくれた。萩の人々は、吉田松陰のことを(少なくとも私たちが会った人たちは)みんな「松蔭先生」と呼ぶのだが、これが印象に残った。長州人、特に萩の人は、町に対する誇りが他とは何か違うようなのである。結局その方のお名前を聞かなかったけれど、こういう小さな、でも心に残る出会いというのは、旅ならでは。
現存する松下村塾とその講義室。そのすぐ隣には、松蔭没後150年を記念して昨年開館したばかりの宝物殿があり、「留魂録」など胸に迫る遺品の数々を見た。
萩に来たからには、高いところから街を一望してみたかった。というのも、2年前山根寿代さんにお会いした時、この話が印象に残っていたからだ。

萩は空襲に遭っていないから、(古いものが)全部残っているんです。300メートルぐらいの山があり、そこから街が一望できます。川が2本流れていて、その中州が萩の街で、向こうはもう海。そこに立ってみて、とっても不思議に思ったんです。この狭いところに、明治維新のとき、なんであれだけいろいろな人が出たのかと。層が厚いでしょう。一番優秀だった久坂玄随とかは22、3歳で亡くなっているのに、その後の何流かが大臣とか総理大臣になっていますよね。まあ、よしあしもあったでしょうけれど。

手元のパンフレットに載っている萩のパノラマ写真を宝物殿の方に見せたら、「ああ、これは田床山からの眺めですね」と教えてくれた。できることならそこに行ってみたいが、残念ながら時間が足りない。そこで、近くの伊藤博文の旧宅を見てから、小高い丘の上にある松蔭の生誕地へ向った。
1830年に生まれた松蔭が、18歳まで過ごした家はもちろんもうないが、家の配置に従って石が敷き詰められている。そこからの眺めは、「ああ、ここに来てよかった」と思わせてくれるに十分だった。
その近くにある松蔭の墓にお参りして(山根さんのご先祖のお墓の場所も聞いておくべきだった)、少し急ぎ足で東萩の駅へ戻る。駅前の小さな喫茶店でコロッケ定食をさっと食べ、14時55分発のバス「はぎ号」で新山口へ抜けた。その後は、新山口発16時41分の「ひかり570号」に乗って、京都に19時4分着。さすがにクリスマスイブだけあって、駅の中も華やかな空気が漂っていた。
近鉄の急行に乗って、奈良の西ノ京へ。昔ベルリンでお世話になっていたジュンさんが駅まで迎えに来てくれる。この日はジュンさん夫妻のお宅に泊めていただくことになっていた。彼らの友達を集めたクリスマスパーティーにも混ぜてもらい、久々にプレゼント交換なんてのもやった。ジュンさんは、いつかこのブログで紹介したメヒティルトさんのアパートに住んでいた人。彼らの近況を伝えると、「またベルリンに住みたいなあ」と、懐かしそうにつぶやいた。
(つづく)



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