オクサーナ・リーニフというウクライナ出身の女性指揮者の名前を知ったのは、一昨年の秋のことだった。日頃からお世話になっている音楽愛好家の編集者(仮にAさんとさせていただく)から教えてもらった。「今欧州を中心に活躍の場をどんどん広げているので、機会があったらぜひ聴いてみてください」とのこと。Aさんはリーニフがまだ無名の頃に来日した際、その指揮ぶりに間近で接する機会があったという。
「あふれんばかりの才能に圧倒されました。モーツァルトが女性だったらこんな感じではないかな、と思わせるキュートで愉悦に満ちた指揮ぶりでした」
昨年夏、そのリーニフがバイロイト音楽祭のオープニング公演《さまよえるオランダ人》を指揮した。この音楽祭の長い歴史の中で女性が指揮台に立つのは初めてのことで、ドイツでも大きな話題になった。
その前後、Aさんから連絡があった。バイロイト音楽祭での彼女の評判などが気になっていたようだ。ちょうど、ベルリンの日刊紙Berliner Zeitungが一面にリーニフのことを大きく紹介したので、そのインタビュー記事と一緒にAさんにお送りしたら、たいへん喜んでくださった。
すると今度は、Aさんから別の編集者の方(ここではBさんとさせていただく)を紹介された。Bさんは正確には元編集者で、すでに現役を引退されている。このBさんこそが、2008年にオクサーナ・リーニフが来日した際、プロの有志からなるオーケストラのコンサートを企画した方であるという。以来、Bさんはリーニフと親交をあたため続け、今も頻繁にやり取りされているとのことだ。
Bさんはちょっと並外れた交友関係をお持ちの方で、ウィーン・フィルやベルリン・フィルを始め、世界中の著名オーケストラに多くの友人がおり、彼らが来日する際に室内楽の友好コンサートなどを企画してこられたという。AさんにしろBさんにしろ、音楽を専門としない日本の編集者のつながりで、私はオクサーナ・リーニフという指揮者を知ることができたのである。
昨年秋、そのBさんと時々やり取りをさせていただくようになってしばらくしてから、「オクサーナにインタビューしてみませんか?彼女はまだ日本のメディアの取材を受けたことがないはずです」という思いがけない話をいただいた。もちろん、願ってもない話である。するとBさんがリーニフさんに直接話をしてくださり、オンラインでのインタビューが実現した。昨年12月半ばのことだった。
インタビューが行われたのは、リーニフさんがロンドンのロイヤル・オペラに《トスカ》でデビューした頃で、公演の合間に時間を作っていただいた。1時間ほど話を伺った中で特に興味深かったのが、リーニフさんのルーツを巡る話だった。というのも、それが私にとってある意味でとても身近な場所だったからだ。
リーニフさんの出身は、ウクライナ西部の小都市ブロディ。歴史上ガリツィアと呼ばれる地域で、私が敬愛するユダヤ人作家ヨーゼフ・ロート(1894〜1939)の生まれ故郷でもある。ドイツ語で作品を書いたロートは、1920年代にはベルリンにもジャーナリストとして滞在し、多くのルポルタージュを残している。そして、リーニフさんが音楽を学んだのが、ブロディから西に100キロほど行ったところにある古都リヴィウ。ここは2005年に友人と一度だけウクライナを旅したときに数日間滞在した。私がこれまで訪れたヨーロッパの都市の中でもっとも魅了された街のひとつといっても過言ではない。かつてはハプスブルク帝国領内にあったことで(当時はドイツ語でレンベルクと呼ばれた)、古き良き中欧の雰囲気がそのまま封じ込められたような趣がある。特に郊外の共同墓地を訪ねたときのことは忘れられない。
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リーニフさんはリヴィウのアカデミーで音楽を学び、その後ここの歌劇場で度々指揮することになる。一度でもその街を訪れたことがあると、話を聞いていても感じ取り方が全然違ってくるものだ。お話を聞きながら、そのときのリヴィウの街並みが脳裏に浮かんだ。
インタビューでは、ロシアとの緊迫した関係にも話が及んだ。ウクライナ人としてリーニフさんが抱く危機感の深刻さは、私には想像できないものがある。それでも、彼女の声を少しでも早く日本の読者に伝えたい……。「音楽の友」の編集長に相談したところ、こちらの意図を汲んでくださり、2月18日発売の3月号に掲載していただけることになった。
そのわずか数日後、ロシアがウクライナに軍事侵攻した。ちょうどリーニフさんに掲載記事のコピーをお送りした直後だった。
先週土曜(2月26日)、リーニフさんからメールが送られてきた。彼女がドイツやオーストリアの数人のジャーナリストに宛てたメールを私にも送ってくださったのだった。そこにはブロディに今も住むご両親やリヴィウ在住の親族の現状が簡潔に書かれていた。添付された写真には、その前日、ご兄妹の子どもたち(4歳と10歳)がリヴィウのシェルターで不安そうに佇む姿もあった。その子どもたちと笑顔で写ったウェディングドレス姿のリーニフさんの写真は、わずか4ヶ月前に撮られたものだという。
この1週間、ウクライナの破壊された都市の映像や膨れ上がる死者の数が毎日報道されている。世界中の多くの人たちと同じように、私もまったく気持ちが休まらない。つい2〜3日前、あの美しいリヴィウの街中で、市民がバリケードを築いている様子がSNSにアップされていた。少し前には、リーニフさんが一時期指揮していたオデッサ歌劇場(非常に美しい建築で知られる)がロシア軍により破壊されたと報道で知り(どの程度の被害かはまだわからない)、愕然とした。
リーニフさんとのインタビューで、特に印象に残っている話がある。
ナチ・ドイツが侵攻するまで、ブロディの住民の大部分はユダヤ人だったという。その大半はホロコーストの犠牲になった。それ以前に亡命した人も多く、現在ユダヤ系住民はほとんどいない。この街の中心部に、第2次世界大戦中に破壊されたユダヤ教のシナゴーグの廃墟がある。2019年にリーニフさんはこの廃墟の前で、野外コンサートを指揮した。演目はレナード・バーンスタインの交響曲第3番《カディッシュ》。バーンスタインの父親はブロディから北東に100キロ行ったところにあるリヴネという街の出身で、そこからアメリカに渡った。このコンサートに際して、リーニフさんがバーンスタインの娘にコンタクトを取ったところ、家族に縁の深い場所で意義深い公演を行ったことに対して感謝の気持ちを示されたという。
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LvivMozArt: Ostgaliziens wiederbelebte Kulturlandschaft (Deutsche Welleの記事)
あの大戦から75年以上が経って、歴史あるシナゴーグがいまだに廃墟のまま佇んでいることに私は少なからず驚いた。これがドイツだったら、もうとっくに再建されていたのではないかとも思った。リーニフさんはこの9月に再びこの前でコンサートを行い、故郷のシナゴーグ再建のためのクラウドファンディングを始めるのだとおっしゃっていた。私はその心に共感し、少しでもこの活動を応援したいと思っていた。もちろん今も思っている。いつかウクライナを再訪できたら、ブロディにも行ってみたいと願っている。
わずか1週間で、プーチンによる残虐極まりない無差別殺人により、膨大な命が失われ、建築物が破壊された。それは人々の営みの記憶をも抹殺する行為である。その一つ一つを見ていけば、リーニフさんのブロディやリヴィウのように、大国に蹂躙されてきた国で人々に大切に育まれてきた記憶や、再生の物語が無数にあるに違いないのである。戦争はそれらすべてを破壊するだけの行為でしかない。
取り返しのつかない事態になってしまった。ウクライナの人々に心を寄せ、この無意味な暴力行為が一刻も早く終わることを祈ることしかできないのがつらい。私が生きている間に、ブロディのシナゴーグが再建される日はくるのだろうか。
初めまして。いつも愛読しております。
ロシアのウクライナ侵攻以来、リーニフさんやシルヴェストロフ(Valentin Silvestrov)さんの消息が気になり、ファイスブックを追いかけておりました。
リーニフさんはお元気そうな様子ですが、シルヴェストロフさんの消息がいまひとつわからず心配しております。
リーニフさんのことを詳しく教えていただき、ありがとうございます。シルヴェストロフさんの消息がわかりましたら、またお伝えいただけると幸いです。
榎本さま
ご丁寧なコメントをいただき、ありがとうございました。お返事がたいへん遅くなり、申し訳ありません。すでにご存知かもしれませんが、シルヴェストロフさんはキエフからベルリンに避難され、一時期よく報道されていました。ひょっとしたら今もこちらにお住まいかもしれません。