イスラエルとパレスチナを巡る情勢で気の重い日々を過ごしているが、記憶が鮮明なうちに10月9日の出来事のことを書き記しておきたいと思う。
この日の11時前、私はベルリン・フリードリヒシュトラーセ駅前の「キンダートランスポート」の記念碑を訪れた。ドキュメンタリー映像の撮影でベルリンを短期間訪れるポール・アレクサンダーさんと再会するためだった。1938年11月9日の「水晶の夜」から39年9月1日の第2次世界大戦勃発までの間に、ナチス・ドイツ支配下で行き場を失ったユダヤ人に対し、イギリスを中心とした国々は17歳までの子どもを受け入れた。このキンダートランスポート(子どもの輸送)により約1万人もの子どもの命が救われたと言われる。ライプツィヒ生まれのポールさんもそのうちの一人。彼がかなり特殊な例なのは、39年7月、わずか1歳7ヶ月のときにボランティアの看護婦に連れられてイギリスに渡ったこと。現在85歳のポールさんは、キンダートランスポートで最も「若い」生存者といえる。ちょうど4年前の今頃、私はイスラエルを初訪問してポールさんと出会い、時々メールのやり取りをしてきた。
記念碑の前に行くと、知人のユーディットさんがいた。彼女はベルリン在住の法律家で、今年の春にポールさんの紹介で知り合った。法律家だったポールさんとユーディットさんは以前ドイツで行われた国際会議で出会ったそうだ。ユーディットさんから聞いた話では、ライプツィヒから確かベルリンに向かう列車に同乗した際、ポールさんが次第に気持ちを高ぶらせていったという。ただならぬ様子に気付いたユーディットさんに、ポールさんは自分が幼少期に列車に乗ってイギリスに渡った話をした。まだ赤ちゃんだったポールに当時の記憶はもちろんないのだが、彼の人生において大きな意味をもつ出来事なのは確かだった。ポールの両親は大戦が始まる直前にドイツを脱出してイギリスにわたり、幸い再び一緒になることができたが、二度と再会できなかった子どもたちも多くいた。
ポールさんは今回他の2人の生存者とベルリンに訪れるそうで、11時頃にフリードリヒシュトラーセ駅の記念碑前で会う予定になっていた。
しかし、11時を過ぎてもポールは現れない。彼の前に別の生存者との撮影が行われると聞いていただけに、誰もいないのは気がかりだ。ユーディットさんと顔を見合わせる。2日前にハマスによるイスラエルへのテロ攻撃があったばかりだ。彼らはそれで出国できなくなってしまったのではないかもしれない。彼女はポールの通話アプリにコールしてみたものの応答はなかった。「おかしいわね。ポールはメールをしてもすぐに返事をくれる人なのに」と言う。不安が募ってくる。
30分ぐらいが経ち、「これはきっと何かがあったに違いない。今日はもう帰りましょう」と納得し合うように話した時、向こう側を向いたユーディットさんが「ポール!」と叫んだ。その時点では何が起きたのか私はまだわからなかったのだが、記念碑の反対側に駆け寄るユーディットさんの後を追って歩いて行くと、バスが停まっていた。そしてそこから降りてきたのは確かにポールだった。ユーディットさんに続いて私もポールとハグをした。そして、4年前は会えなかった奥さんのNiliさんとも。
ポールの他に国際的な取材チーム、そしてもう2人のサバイバーの方々もバスから降りてきた。ポールは、George Shefiさん(91歳)を私に紹介してくれた。ジョージさんのお名前は知っていた。ベルリンのシェーネベルク生まれ。いわば私の「隣人」だった方だ。そしてもう1人がWalter Binghamさん。なんと99歳とのことだが、とてもそんな風には見えない。今も現役のジャーナリストだという。ポールとこのヴァルターさんは15歳近く離れている。ポールがキンダートランスポートの最年少の生存者であるのに対し、ヴァルターさんはほぼ最年長にあたる。
彼らの滞在時間は限られており、すぐに撮影が始まった。3人のサバイバーに誰かがインタビューするのではなく、「生への列車、死への列車」と題された記念碑の前で彼らが自由に語り合っているところが撮影された。ほんの10数分前まで、会えないと思っていた生身の彼らがすぐそこにいる。私は半ば信じられない思いで、しばらく3人の写真を撮り続けた。
正味1時間10分ほどの滞在だっただろうか。彼らはこの後ベルリン中央駅に移動し、列車でビンガムさんの出身地のカールスルーエに行くという。ポール夫妻にもう一度ハグをして再会を願った。バスを見送ると、寂しさが込み上げてきた。ポールにはまた会えると思いたいが、ビンガムさんは最後のベルリン訪問になるかもしれない。声をかける機会がなかったのが残念だった。
あれからまだ3週間も経っていないのに、イスラエルとパレスチナの双方で膨大な犠牲者が生まれた。その中には数多くの子どもたちも含まれている。憎しみが憎しみを生み、それがさまざまな媒体にのって拡散されていく。そんな現実を前に気持ちが沈みがちになるとき、私はポールさんたちに会ったときのことを思い出す。
「せめて息子だけでも安全な地に」という思いから1歳半のポールを見知らぬ地に送った両親の思いはどれほどのものだったのか。その感情に国籍や民族の違いはない。私は彼らの到着が遅れただけで不安な気持ちを抱いたが、当時彼らの親たちは「自分の子どもに二度と会えないかもしれない」という気持ちで列車へと送り出していたのだ。そうやって命をつなぎ、歳を重ねて85歳、91歳、99歳になった「子どもたち」が再びベルリンに来て、自らの体験を語ってくれたことの意味に思いを巡らせている。
最後に、音楽家のダニエル・バレンボイムがバレンボイム=サイード・アカデミーの母体であるピエール・ブーレーズ・ザールのHPに寄せている平和のメッセージを一部ご紹介したい。英語とドイツ語でアップされており、多くの人に読んでいただきたい内容だ。
どちらの側にも人間がいる。ヒューマニズムは普遍的なものであり、双方がその真実を認識することが唯一の道だ。どちらの側であれ、罪のない人々の苦しみは耐え難い。
どんなに論争があろうとも、私たちは皆平和と自由と幸福に値する平等な人間であるという基本的な理解から議論を始め、終わらせるのだ。
ナイーブに聞こえるかもしれないが、決してそうではない。現在、両陣営の対立の中で完全に失われているように見えるのはこのことへの理解なのだから。