(前回のつづき)
ヴァルター・ベンヤミンの「1900年頃のベルリンの幼年時代」の中の「ブルーメスホーフ12番地」。その後半では、ベンヤミンのおばあちゃん宅でのクリスマスの様子が描かれている。盛大な食事やプレゼント交換といったあたたかい情景の後、最後はこのように終わる。
この日、祖母の住まいに来てから、もう何時間も経っていた。それから、しっかり包まれ紐をかけられた贈り物を腕に、私たちが夕暮れの路上に出ると、建物の入り口のまえに辻馬車が待っていて、雪は軒蛇腹や格子垣のうえでは誰にも触れられぬままに白く、舗石の上ではいくらか汚れて積もり、リュッツォ岸通りからそりの鈴の音が響き来たり、そして、ひとつまたひとつと点っていくガス灯が、点灯夫の足取りをこっそり教え、甘美な祝祭日の宵にも点灯夫は点灯竿を肩にかつがねばならなかった、この夕暮れどき―そのとき街は己れ自信のうちに深く沈潜していた。私と私の幸福を包んでずっしりと重くなった袋のように。
この運河沿いの道を幾度となく歩いた私には、ここに描かれている甘美な情景を思い浮かべるのはそれほど難しいことではない。20世紀初頭、ティーアガルテン南側のこの界隈では、裕福な市民(ブルジョワ)の生活がまだ平和に営まれていたのだった(写真は現在のリュッツォ岸通り)。
ところで、Berliner Stadtplanarchivというサイトでは、1906年当時のベルリンの地図をネット上で見ることができる(ベルリンの年代別の地図をつぶさに観察できる、このすばらしいサイトを教えてくださったla_vera_storiaさんに感謝!)。もしご興味があったら、こちらをご覧いただきたい。
ここにコピーするのはその一部分だけだが、ベンヤミンの祖母の家があったブルーメスホーフ(Blumesh.)をはっきり確認することができる。その右隣にエリザベート病院という大きな病院があるが、私が住んでいたアパートは、”Elisabeth Krankenh.”と書かれた中の、ほぼ”s”の位置の中庭(Hof)にある。ブルーメスホーフとは、まさに目と鼻の距離ということがおわかりいただけると思う。
私が住んでいたこのシェーネベルク岸通りのアパートに、当時どのような人が住んでいたのかは残念ながらわからない。だが、ベンヤミンが言うように、アパートの造りから見て、ここにもかなり裕福な人々が住んでいたのは間違いないだろう。ユダヤ人も多く住んでいたはずだ。この近所にはかつて、ユダヤ教の礼拝堂であるシナゴーグもあったのだから。
この地図では他に、ベンヤミンが生まれたマグデブルク広場(Magdebg.pl)やラントヴェーア運河(Landwehr Kanal)も確認できるし、前回ご紹介したマタイ教会(Matthäus K.)も運河の北側にイラストで描かれている。南から北東へ伸びる、白で太く描かれた線は、ポツダム通り。運河の上に架けられたポツダム橋(Potsd.Br.)を渡って道なりに沿って行くと、繁華街のポツダム広場(Potsdamer Platz)にぶつかる。以上が、この界隈の20世紀初頭の大まかな様子である。
ではその後、ヴァルター・ベンヤミンとブルーメスホーフの彼の祖母の家、そしてシェーネベルク岸通りの私が住んでいたアパートには、どのような運命が待ち受けていたのだろうか。
「1900年頃のベルリンの幼年時代」の序文は、このような文章で始まる。
1932年に外国にいたとき、私には、自分が生まれた都市に、まもなくある程度長期にわたって、ひょっとすると永続的に別れを告げなければならないかもしれない、ということが明らかになりはじめた。
ベンヤミンがこのエッセーを書き始めた翌1933年、ヒトラー率いるナチスが政権を握ると、ベンヤミンは故郷のベルリンに残ることができなくなった。それどころかユダヤ人作家である彼は追われる身にさえなっていたのだった。ベンヤミンは同年パリに亡命。その後もナチの手から逃れようとするが、1940年9月、ヴァルター・ベンヤミンは亡命行のピレネーの山間で自ら命を絶った。「1900年頃のベルリンの幼年時代」は、彼の生前出版されることはなかった。
時代はどこからか狂い始め、もう逆戻りできないところまで来てしまっていた。第2次世界大戦が始まると、ベルリンにはさらに恐ろしい運命が待ち受けていた。ドイツ軍が劣勢になり、連合軍によるベルリンへの空襲が本格的に始まったのは1943年のことである。この年の11月21日から翌年の5月25日にかけて、再三に渡って激しい空爆が繰り広げられた。特に、11月22日から26日にかけての爆撃は凄惨さを極め、5日間だけで4000人の市民が亡くなり、34万戸ものアパートが爆撃されたという。もちろんこのティーアガルテン一帯も甚大な被害を被った。
私の手元に1945年のベルリンの空撮地図がある(これは、大きな本屋や土産物屋で手に入れることができる)。この地図の解説によると、ティーアガルテン地区はベルリンの中でも2番目に空襲の被害が大きかった地区なのだという(ここには書いていないが1位は間違いなくミッテだろう)。全建物のうち、完全倒壊が32%、修復不可能なレベルのものも22%あった。つまり、半分以上の建物が、戦後この界隈から消えたことになる。完全に被害を免れたか、軽い被害しか受けなかった建物は、全体の31%だけだった。
確かにこの空撮地図を見ると、この界隈の被害のすさまじさが一目瞭然だ。爆撃によって屋根に穴が開いたことで、内部の部屋の仕切りが浮き出ていたり、それさえもよくわからずぐちゃぐちゃになっている建物の割合が非常に高いのである。ベンヤミンの生まれたマグデブルク広場とその西側のリュッツォ広場はほぼ壊滅状態。ラントヴェーア運河の北側は、日本とイタリアというドイツの枢軸国の大使館が並んでいたこともあり、その周辺の被害の度合いも極めて大きかった。
ポツダム橋を渡って、ポツダム広場へと通じる道の周辺の惨状については、どのように形容したらいいのだろう。戦前のポツダム広場は、東京に例えるならば銀座のような繁華街だった。そのすぐ北側には、「帝国宰相官邸」があり、ヒトラーの防空壕もあった。米英の連合軍が、この地区を爆撃の対象にしない理由はなかった。とにかくここは、文字通り焼け野原と化したのだった。
先にご紹介したBerliner Stadtplanarchivのサイトでは、1945年の地図も見ることができる。これはちょっと変わった地図である。通りの名前が大まかにしか記されていない代わりに、ブルーで色分けされている。もうお気づきだと思うが、戦争の被害の大きかった建物には濃いブルー、被害がそれよりも小さかった場所には薄めのブルーで色分けされているのである。
上の画面真ん中の通りがブルーメスホーフ。ベンヤミンのおばあちゃんの家があった12番地がどこにあったのかわからないけれど、いずれにせよこの通りに面した建物はほぼ完全に爆撃でやられてしまったということが、色だけでわかる。後の50年代初頭の写真を見ると、この通りの西隣のスペースは完全なさら地となった。ブルーメスホーフ自体は1964年まではあったようだが、その後は消えてしまった。ベンヤミンの幼少期の思い出がいっぱいつまったこの通りは、完全に歴史から消えてしまったのである(現在この場所にはユースホステルが建っている)。
先の地図の右横につながるのがこの部分。ここも被害の程度はひどい。だが、左上の青い部分と、右下から左上へと斜めに長く伸びる青い部分とが交差するところに、四角の小さなスペースがぽっかり空いているのが確認できないだろうか。この部分こそが、私が住んでいたアパートなのである。それにしても、周りの建物は爆撃の犠牲となったのに、なぜここだけは残ったのだろうか。1945年の空撮地図を見ると、コの字型のこのアパートがよりはっきりと具体的に確認できるのだが、初めて見つけた時は感動を抑えることができなかった。
なんという歴史の因果だろう。私がベルリンに来てすぐ、偶然のように見つけたアパートは、こういう歴史を持ったアパートなのだった。ヴァルター・ベンヤミンは間接的にナチスの犠牲となり、ブルーメスホーフの彼の祖母のアパートは空爆の犠牲となった(はずだ)。だが、そこから数10メートルも離れていないこのアパートは、なぜか「生き残った」。ベンヤミンの幼少の時代も、ナチスが台頭した時代も、戦争の時代も、このすぐそばに壁があった時代も、シェーネベルク岸通りのこのアパートには、どんな時にも確かに人が住んでいた。そして、これまたどういう因果か、東洋からやって来た日本人の私がそこに住んでいるという不思議な縁・・・
このアパートに1年間住んだことは、私のベルリン生活のひとつの原点ともいえる体験なので、どうしても一度文字にしてみたかった。
(長文でしたが、最後まで読んでくださった方々には心より感謝します。よかったらワンクリックもお願いします)
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中央駅さん、非常に感慨深く読まさせていただきました。 私もこういうような、過去とのつながりをたどる探求が大変好きです。こういうことは日本にいた時代には気も付きませんでしたが、ヨーロッパ(フランス)に長く住むようになった時に初めて、過去の歴史と現在の自分との接点を探求することに興味を持ちました。 これからも是非、ヨーロッパの歴史と中央駅さん個人の接点をこのベルリンに探る旅、是非御紹介下さい!
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ベルリンとパリを比較しますと、「誰某がXX街のXX番地に住んでいた」ということへの関心と探求が、まだベルリンでは十分ではないように思います。その証拠に、ベルリンはパリと比較すると、過去のそこでの出来事を記念するプレートの数が非常に少ないと思われます。やはり戦争による被害というものの大きさが関係していると思いますね。 中央駅さんのblogの人気ランキング上のライバル都市はパリのようですね。 しかし、ベルリンにはまだ皆さんのご存じない、歴史の息吹きを感じさせる場所が、未紹介のままいくつも残っていますので、あっと驚くそういうものを紹介できるのがベルリンという街の強みでしょうね。 この点、パリはもうかなり紹介され切っていますからね。 私も実は、ベルリンで、あっと驚くようなものをいくつか見つけていますので、自分との関わりを中心にしてそのうち御紹介したいと思っています。
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このアパートの話を続けるにあたって、la_vera_storiaさんからはいろいろなことを教えていただきました。ありがとうございます。実は私も、日本にいた時は、東京や実家の町の歴史など大して興味がなかったのですが、ベルリンに来て初めて、la_vera_storiaさんがおっしゃる「過去の歴史と現在の自分との接点を探求すること」に興味を持つようになったのです。なぜだか不思議ですが、過去について考えるきっかけがここには豊富にころがっているからかもしれません。ベルリンには、パリのようなきらびやかさはないかもしれませんが、この町の歴史には深く惹かれるものを最近ますます感じています。ところで、la_vera_storiaさんの「あっと驚くようなもの」というのが何か気になります(笑)。いつかご紹介いただけるのを楽しみにしています。
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中央駅さんは、もうご存知かもしれません。中央駅さんのこの最初のアパートのすぐ近く(Landwehr Kanalに架かっているBendler橋)で1920年2月18日午後9時頃に起こった事件のことです。問題の人物はすぐにエリーザベト病院に運ばれ、一命をとりとめることになります。この事件は、20世紀の歴史を大きく動かしたある事件に深く関係していますが、この人物は非常に謎に満ちた生涯を送ることなるのです。このBendler橋というものをいつか「幻影」の舞台にするつもりです。問題の人物とはこういう人です。
http://home.htp-tel.de/abuhrdorf/anastasia/romanow.htm
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あのアパートのすぐ近くで、そんな出来事があったのですか。ティーアガルテンに通じるあの橋は、ベンヤミンのエッセーにも出てきますね。「幻影」での連載を今から心待ちにしています。
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こんにちは。方々でコメント等でお見受けしています。ベンヤミンの所縁の土地、面白いですね。関連でTB貼ります。
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pfaelzerweinさん、コメントありがとうございます。読んでいてとても勉強になるブログですね。よかったらリンクを張らせていただきたいと思います。