「ベルリン市立オペラ(Städtische Oper)」のプログラム
(前回のつづき)
1960年代のベルリン音楽談義
メヒティルトさんがバイロイトに通い始めた1960年代前半、日本同様にドイツも経済成長期を迎え、ベルリンの音楽文化にも大きな変化が訪れていた。今回はメヒティルトさん所蔵の60年代のプログラムなどを見ながら、当時の音楽生活を振り返ってもらうことにした。
メヒティルトさんの家から近く、個人的にも馴染みの深いシャルロッテンブルクのStädtische Operは、戦争で大きな被害を受けたため、戦後はカント通りの別の劇場で公演が行われていた。
1961年9月には、ベルリン・ドイツオペラと名前を変えた新しいオペラハウスが杮落としを迎える。その時の演目がモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」だった。メヒティルトさんが聴いたのは1963年の公演で、指揮はオイゲン・ヨッフム。
メヒティルト:この「ドン・ジョヴァンニ」は思い出深いのよ。ドン・ジョヴァンニを歌ったジョージ・ロンドンという歌手がとにかくすばらしくて、有名な「シャンパンの歌」の後で拍手が鳴り止まずに、その場でもう一度歌ったの。これはそのことを記した私のメモです(笑)。懐かしい!
1963年10月、ハンス・シャロウン設計の斬新なフィルハーモニーが完成したことによって、ベルリンの音楽生活は大きな変化を迎えた。これ以降のプログラムには、カラヤン、ベーム、クーベリック、バルビローリなど、そうそうたる面々が並ぶ。どれか一つでいいから聴いてみたかったな、なんて個人的には思ったりもする。
メヒティルト:ちょっとこれを見て。これはフィルハーモニーがオープンして最初の年のハンス・スワロフスキーのコンサートだけど(1963年11月)、上に小さく「病気のパウル・ヒンデミットに代わって」と書いてあるでしょう。
後で調べてみたところ、ヒンデミットが亡くなったのはそのわずか1ヶ月後の1963年12月28日のこと。まさに歴史の転換期だったわけだ。
1964年2月23日。クーベリック指揮で、ドヴォルザークの「新世界」、チェロ協奏曲、スメタナの「モルダウ」というオーソドックスながら垂涎もののチェコ音楽プログラム^^;)。
1969年10月19日。カラヤン指揮で、シューベルトの「未完成」とドヴォルザークの交響曲第8番のプログラム。これは青少年向けのコンサートで、メヒティルトさんはよくこのシリーズを聴いていたという。黄金期のカラヤン&ベルリン・フィルを普通に聴けた当時のベルリンの人々がうらやましい^^;)。
Herbert von Karajan (1908-1989)
メヒティルト:これは1965年5月に、ロンドン交響楽団がショルティの指揮で客演した時のものですが、印象に残っている出来事が一つあるんです。今では全く珍しくないことだけれど、オケの団員が舞台に上がってから、コンサートマスターが拍手に迎えられて一人で登場するでしょう。こういう舞台作法を私が見たのは、このコンサートが初めてでした。「さすが英国人は違う」と思ったものです(笑)。
夫と左翼運動
音楽の話になるとキリがないので話を先に進めましょう(笑)。ご主人のルートヴィヒさんの話を聞かせていただけますか?
メヒティルト:私がルートヴィヒと結婚したのは71年の2月のことです。その直後に長男のマルティンが生まれました。ルートヴィヒは田舎の出身で大学を出ていましたが、コンサートやオペラ、演劇などとは、どちらかというと無縁の生活を送っていました。一度カラヤンのコンサートにも連れて行ったことがあるけれど、どうも彼はあまりピンとこなかったみたい。それでも私たちは演劇の年間通し券を買ったりして、少なくともたまには劇場に一緒に行くようにしていました。ちょうどアイルランドの劇作品がシラー劇場などでよく上演されていた頃です。
当時ルートヴィヒは政治的にかなり左寄りで、大学でもさかんに政治活動をしていました。一度毛沢東思想についてトクトクと語られたこともあるわ(苦笑)。彼がデモに行っている間、私は子供たちとお留守番。私の両親も、「彼は今日、どこで何をしているんだい?」と聞いては、彼の政治活動を好ましく思っていませんでした。私もそうだった。ルートヴィヒの政治仲間に会ったことがありますが、考え方が一面的で狂信的というか、とにかく馴染めませんでしたね。
70年代の後半になってから、Alternative Listeという後の「緑の党」の前身となる党がベルリンに結成され、ルートヴィヒもそこに入りましたが、こちらの方ははるかにユーモアがあって好感が持てました。その後、私はよく彼に冗談でこう言ったものです。「ルートヴィヒ、メーデーのデモに私も参加するから、その代わりクリスマスは私と一緒に教会に行ってちょうだい!」と(笑)。
すると?
メヒティルト:ルートヴィヒは教会にも来てくれたわ。この地区にはとてもいいゲマインデがあって、長年アルゼンチンで暮らした牧師さんがいました。私はこの教会でいろいろな活動をしたけれど、印象に残っているものとしては、70年代中期にチリから大量の避難民がベルリンに押し寄せて、スペイン語が堪能な牧師さんがいるこの教区へ住みつくという出来事があったんです。私たち家族も彼らとの交流に参加して、例えば古着を集めてチリに贈ったりというような活動をしました。
そのルートヴィヒだけど、ここ数年来何とワーグナーを聴くようになったのよ(笑)。バイロイトにも何度か行ったし、「ワーグナーは音楽やストーリーがわかった方が楽しめる」と言っては、大学の研究室でもよくCDをかけっぱなしにしているみたいです(注:ルートヴィヒさんは植物学者)。私自身は家で音楽を聴くことはめったにないのですが。
(つづく)
(メヒティルトさんへのインタビューは次回がいよいよ最終回です。よかったらワンクリックをお願いします)
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ヨッフム指揮ベルリン・ドイツ・オペラの「魔笛」を日生劇場で観ました。パミーナのピラール・ローレンガーが特に印象に残っています。またロンドン響のコンマスが後から出てくるのには私も驚きました。この記事は私にいろいろ昔を思い出させてくれました。
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Deutsche Oper Berlinには懐かしい思い出がいくつもあります。その中で最高だったものは多分、76年と77年に観たやはりヨッフム指揮の「マイスタージンガー」でしょう。フィッシャー=ディースカウの言語に絶する多彩な表現のザックスと、ヨッフムの熱っぽい指揮ぶり、あの時の公演のあの時の熱気というものは、今となれば想像し難いことでした。そういったかつてのことをいくつか知っている身にすれば、最近のこの劇場の聴衆の不入りは本当に痛々しい! こういうモダーンな建築の劇場の客席の多くが空席であるとき、より一層悲惨さが増すような気がするのはなぜなのでしょうか?
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ヨッフムはEMIのブルックナー交響曲全集でお世話になりましたね。
ヨッフムが亡くなり、振る筈だったベルリン・フィルのコンサートの前には確か追悼の短い演説がありました。病欠だったり、追悼コンサートだったり、その場に居合わせられた幸福を感じる演奏が多々ありました。
ドイチェ・オパーもほんとによく通いました。懐かしい。いつも3階席でしたが…
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>ひろとさん
>パミーナのピラール・ローレンガー
このドンジョヴァンニではドンナ・アンナを歌っている歌手ですね。
ほぼ同時期日本で生で聴かれた方がいらっしゃったとは、うれしい驚きです。さぞや懐かしかったのではないでしょうか。
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>la_vera_storiaさん
>76年と77年に観たやはりヨッフム指揮の「マイスタージンガー」でしょう
この組み合わせで、しかもフィッシャー=ディースカウのザックスとなれば、もはや伝説級ですね。本当にすごい!と思います。数年前に私が聴いたティーレマンのリング公演にはかなりの熱気がありましたが、la_vera_storiaさんがその場にいたらどう感じられたか・・・
>こういうモダーンな建築の劇場の客席の多くが空席であるとき、
>より一層悲惨さが増すような気がするのはなぜなのでしょうか?
本当にそうですね。別に劇場に限らず、ベルリンの至る場所に建つモダンな建築群が、数十年後に空虚な姿をさらしていないことを願います。
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>gramophonさん
>その場に居合わせられた幸福を感じる演奏が多々ありました。
機会があったらその時のお話でもまた聞かせてください。
焼きそうせいじさんから、86年頃にヨッフムの「運命」を聞いた話を以前伺ったことがあります。