橋の下の貨物駅から – ベルリンのユダヤ人 –

SバーンBeusselstraße駅からWesthafen駅方面を望む(11月5日)
空はどんより、日の長さも急激に短くなる11月は、ドイツに住む人々にとって(北国全般に言えることかもしれませんが)1年でとりわけ気が滅入る月だと言います。そういう時期にベルリンの過去の重い話をするとますます気分は暗くなりますが、これは私なりの意図もあってのことなので(それについてはおいおいと)、お付き合いいただけたらなと思います。
第2次世界大戦中に、ベルリンのユダヤ人を強制収容所へと運ぶための列車が出た駅は、全部で3つあったという。一番有名なのが先日ご紹介したグルーネヴァルト駅だが、その次に多くのユダヤ人が送られたのが、ティアガルテンのプトリッツ橋(Putlitzbrücke)の下にある貨物駅だった。ちなみにもう1つは、戦前のベルリンの大ターミナル、アンハルター駅だったというから驚く。
ティアガルテン地区の北側に位置するモアビット(Moabit)は19世紀の後半以降、労働者街として発達し、戦前ベルリンで最大級のシナゴーグがあったことからユダヤ人も多く住んでいた(Levetzowstr.とJagowstr.の角にあったかつてのシナゴーグ跡には現在警告碑が建っているが、私はまだ足を運んだことがない)。
プトリッツ橋下の駅が悲しい歴史の表舞台に登場するのは、1941年の10月からである。この年、ナチスがモアビットのシナゴーグの敷地内に1000人を収容できる施設を作らせ、自宅から強制的に連れて来たユダヤ人をここにかき集めた。彼らは密集した室内で数日間収容させられた後、SSの監視の下でプトリッツ橋の駅に連れて行かれた。シナゴーグからこの駅まで、当初はトラックで運ばれたらしいが、1943年以降、彼らは重い荷物を持って歩いて移動しなければならなかった。地図で見るとその間は結構な距離がある。裏道を通るにしても、途中どこかで大通りを通らざるを得ない。日中、多くの一般市民の目にさらされながらユダヤ人の集団がぞろぞろと移動していたことになるが、実際そうだったらしい(参考ページ)。
現在、橋の中ほどにこのような警告碑が建っている。かつてその下に貨物ホームがあった。ユダヤ人たちはここで家財道具を奪い取られた後、すでにホームに待機している貨物列車に乗せられ、強制収容所へと送られることになったのだ。現在はSバーンのWesthafen駅がその隣にある。
この橋は何度か通ったことがあるが、この碑にはいままで気付かなかった。歩くたびに、そして新たな歴史の事実を知るたびに、ベルリンの街は違った風景を帯びてくる。それはこの街に限ったことではないだろうが。

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2 Responses

  1. pfaelzerwein
    pfaelzerwein at · Reply

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    「一般市民の目にさらされながらユダヤ人の集団がぞろぞろと移動していたことになる」― これは紛れもない事実である年齢以上の人は「ああいう事になっているとは知らなかった」と言い訳しますが、アドルノが指摘する通り「遠く見えない聞こえない所へ」と運ばれた事実は目撃しているのです。堵殺を家庭で行なう場合もありますが、やはり流石にそれを本格的に出来なかったのですね。

  2. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    >pfaelzerweinさん
    >アドルノが指摘する通り「遠く見えない聞こえない所へ」と運ばれた事実
    重い言葉ですね。自分がその場にいたら、果たして何ができるだろうと考えると、とても複雑な思いにとらわれます。

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