昨年夏、ドイツニュースダイジェストにベルリン在住のヒロシマ被爆者、外林秀人さんにインタビューさせていただく機会がありました(Tags: Interviewにてご覧いただけます)。あの時は戦後65年という節目の夏だったのですが、今回の福島の原発事故の関係で、外林先生のお名前をドイツのメディアで目にする機会が再び増えたように思います。ドイツ人記者によるまとめ方は玉石混淆だったようですが、3月27日のターゲスシュピーゲル紙日曜版でのインタビューは、1面丸々が紙面に割かれ、内容も先生ご自身納得のいくものだったようで、以前から私に翻訳を依頼されていました。日本に帰る前に何とか訳し終えたので(ご協力いただいた友人の宇野将史さんに多謝!)、多くの方にじっくり読んでいただけたらと思います。それでは次は日本で!
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ヒロシマの生存者、外林秀人
「私は血を見るのがいやなのです」
外林秀人(82歳)は広島で生まれ、長崎で育った。1964年よりベルリン在住。ベルリン工科大学にて物理化学の教授となり、マックス・プランク協会で研究を重ねた。1988年にドイツ人のアストリッドと結婚し、ミッテ地区に暮らしている。広島に原爆が落とされた時、16歳の外林秀人は学校の教室に座っていた。彼はフクシマをどのように見ているか、そして若い人々に何を語るのだろうか。
外林教授、日本の大災害の動向をどのように追っておられますか?
インターネットや日本の新聞、もちろんテレビも見ています。放射線の測定を受ける子供の様子や、ガイガー・カウンターが高い測定値を示したため、衣服を脱がなければならない人々の写真を見た時、私は被災者の方々が自分や、当時の多くの人々と同じような目に遭うのではないかと危惧しました。すなわち、差別という問題です。
といいますと?
一度被曝すると、放射能が感染すると思っている人がたくさんいるのです。ですから社会のつまはじき者にされるのです。
ご自身もそのような状況に置かれたのでしょうか?
つい数年前まで、私が原爆投下時に広島にいたことは秘密にしてほしいと、弟は強く迫ってきました。でも彼は医者なので、そのような心配が理にかなっていないとわかっているはずです。子供たちが、私のようなおじのせいで、縁談に支障をきたすのではないかと心配していたのです。ですから、私たちの母の名前が広島の原爆記念碑に加えられるのも弟は望みませんでした。「少なくとも僕の子供たちが結婚するまで待ってほしい」と。そんな彼のために60年間、私は待ったのです。
日本では電力の35%を原子力発電に頼っています。日本は唯一核分裂の破壊力を経験した国であるのにも関わらず、エネルギー供給をなぜこれほど原子力に依存しているのか、説明することはできるでしょうか?
奇妙なことに、日本人は核の軍事使用と平和的利用とを分けて考えています。ですが、現在起こっていることを見ると、「平和的」というのは間違った考えだと思いますね。日本では原子爆弾の拡散を留めようという動きは強いですが、原子力を電力として利用することは、簡単に受け入れてしまうのです。例えば、私の妹は私と同様核兵器に反対していますが、彼女の夫は電力会社の監査役です。彼女が言うには「お兄さん、義弟の前で言うことには注意して。原発のことを悪く言うと、彼は嫌がるのよ」。
ご兄弟はまだ日本で生活されていますが、この大災害で被災されませんでしたか?
いえ、妹は広島に、弟は京都に住んでおり、どちらも危険地域からは遠く離れています。家族と東京に住んでいる私の甥の何人かは、まったく通常通り職場に通っています。すでに東京を離れた人々もいますが、そんなことが可能なのは、そもそも年金生活者の老人だけです。職場が東京にある人は、簡単に仕事をやめることなどできませんから。
外林教授は数年前から核兵器の廃絶のために力を注ぎ、日本とドイツの学校で講演をされています。原子力発電についても警告を発しておられるのですか?
原発は私の研究テーマではありませんでした。この数週間で初めて、私は原発への理解を本当に集中的に深めたのです。ある知人が、20年間原発で働いた後、癌で亡くなった日本のあるエンジニアのレポートを送ってくれました。原子力発電所は全てが円滑に機能しているとその近隣の人々は思い込まされていますが、全く健康の危険性にさらされていない、というわけではないのです。このエンジニアのレポートで一番興味深かったのは、福島の事故の前から、すでに原発周辺の住民が差別に遭っていたということです。東京で婚約をしたものの、婚約者の家族によって結婚を破談にされた若い女性のことをその方は伝えています。この家族は、彼女が健康な子供を産めないのではと恐れたのです。
この「差別」は日本特有のものなのでしょうか?
ドイツ人でも放射能と聞いて取り乱す人はいます。ポツダムには原爆投下の犠牲者追悼の記念碑が立っており、広島と長崎からの2つの石がそこにはめ込まれています。放射能で汚染された石だと言って怖がる人がいるから、取り除かなければならないという意見もありました。それ以前にその石は広島の大学で検査され、まったく危険はないとのことだったのですが。
原爆が広島に落ちた時、外林さんは16歳でしたね・・・
1945年8月6日の8時15分、でした。普通この年齢だと勤労奉仕をしなければならなかったのですが、私は試験に合格したのでエリート学校に通うことを許されたのです。その時間、私たちは教室で化学の授業を受けていました。夏の明るい日でした。なのに、突然明かりがついて、みんなの顔がぱっと光ったかのようでした。それから轟音がとどろきました。
キノコ雲はご覧になりましたか?
いえ、目の前が真っ暗になり、私はすぐに気絶しました。ようやく少しずつ再び意識を取り戻すと、上の方の穴から光が射し、自力で脱出することができたのです。私たちは爆心地から1.5キロほどの距離にいたのですが、学校中の建物は崩壊し、瓦礫の間から火が燃えていました。友人の光明君の助けを求める声が聞こえました。彼は瓦礫に挟まっていたものの、引っ張り出すことができました。が、顔から出血し、耳はほとんど引き裂かれ、一方から垂れ下がっていました。一緒に家へ帰ろうとしましたが、それは簡単なことではありませんでした。両親の家はそこから1キロほど離れていて、2つの川が流れています。全ての橋は崩壊していました。光明君は歩くことはできたものの、泳げません。私は小舟を見つけ、彼を乗せて押しながら川を渡りました。
爆発の時、ご両親はどちらにいらしたのでしょう?
私の父は幸い家にいました。そうでなかったら私たちの家も確実に焼失していたでしょう。いつもの朝のように窓から布団を干していたので、即座に火が回りました。父はすぐに消火することができたのです。
お友達はどうなったのですか?
彼はなんとか故郷に帰りました。後にそこで亡くなったと聞いています。私は父と一緒にすぐに家を出ました。
お母様を探すために?
そうしたかったのですが、ちょうど私たちの家に沖増君という私と同い年のお客さんが来ていました。お客さんへの責任があるので、まず客人の面倒を見なければならない。これが日本での流儀なのです。私たちは彼も見つけ出しました。爆心地からわずか600メートルほどの場所でした。
彼は生き延びたのですか?
そこにいた人たちは、ほぼ絶望的でした。私たちは、皮膚がずたずたに体からぶら下がった人々を見ました。ある橋では、階段が川へと下ってゆき、辺り一面人間が川岸に積み重なっていました。全員死んでいると私は思いました。ところが、近づいてみると、彼らは私の足をつかんだのです。水をくれと頼む人もいれば、自分が誰で、身内に(安否を)伝えてくれと私に話そうとするだけの人もいました。水辺に沖増君も見つけました。私たちは彼の遺体を家に持ち帰り、彼の両親に引き渡すことができました。
ではお母様は?
残念ながら、私たちはどこを探したらいいのかわかりませんでした。母は勤労奉仕に出ており、建物を壊して道路を拡張する作業に従事していました。空襲の際、火の回りを遅らせるためです。後に、私の妹は自分を強く責めていました。
そのことが妹さんとどういう関係があるのですか?
妹はまだ10歳で、他の大勢の子供たちと同様、田舎に疎開していました。そこを母が訪問しました。妹はまだとても幼かったので、「お願いだからもう1日だけいて!」と母に懇願しました。そのために、母は勤労奉仕の日を8月6日に変更してしまったのです。もしそうでなかったら、その日、母もまた家にいたでしょう。妹はいまでも時々自分自身を責めています。
お母様は見つからなかったのですか?
いえ、赤十字病院で見つけました。この混乱の中で見つかったのは、まったくの偶然でした。母は実際怪我をしてないように見え、表面上は無傷でした。しかし動くことができず、私たちはリヤカーに乗せて家に運びました。その3日後の8月9日、母は35歳で亡くなりました。長崎に原爆が落とされた日です。
お母様は、見た目は無傷だったとおっしゃいましたが、その3日間で病気の兆候が表れたのでしょうか?
まず髪の毛が抜け落ち、やがて歯茎が出血し始め、歯がぐらぐらになりました。私たちは棺を作り、仏教のしきたりに従って家の裏手の畑で火葬しました。母が見つかったのは不幸中の幸いといってもよいでしょう。津波が村全体を根こそぎ奪い去った今の仙台や福島と同じように、広島もあのように見渡す限り瓦礫の山でしたが、被災者の方々を思えば、家族や親類と最後のお別れができるのは、まだいい方なのです。
日本人は、このような最悪の災害でもストイックな姿勢を守るよう、教え込まれているのでしょうか?
ひょっとしたらこういうことかもしれません。ヨーロッパの人々は技術で自然を征服できると考えている。アジアでは自然が強大です。つまり、台風があれば、地震も津波もある。10メートルの津波が来たら、それは運命なのです。人は運命と折り合いを付けなければならないし、何もかも再建しなければならない。しかし、ヒロシマとフクシマは自然災害ではありません。ゆえに人間の側に責任があるのです。
お母様が亡くなった時、どのような種類の爆弾が頭上に落とされたのか、認識されていらっしゃいましたか?
いいえ、とてつもなく強力な爆弾に違いない、ということだけでした。私は最初に、「なんてことだ、このすぐ近くに落とされたに違いない」と考えました。広島のどこにいようが、誰もがただそう感じたのです。それからすぐに、あれやこれやと噂が流れました。髪の毛が抜け落ちた人がたくさんいました。私も歯茎から出血しました。当時、われわれは放射線のことをよく知らず、「ここを離れなければならない。今後75年間はもう広島には住めない」と言う人もかなりいました。それは公式の発表だったわけではありません。結局、今と状況はいくらか似通っていました。福島の周辺の人々も、これからどうなるかわからないように。
死者が出るのはどのくらい続きましたか?
大体8月の終わりまででした。が、その後も犠牲者はいました。父は20年後に胃がんで亡くなり、私はそれを放射線のせいだと考えています。私に関しては、何年か前に腸の腫瘍が見つかりました。幸い手遅れにならない時期の発見でした。他のあらゆるヒロシマの犠牲者同様、私は原爆手帳を持っていて、2年おきに広島で診察を受けることができます。
ヒロシマの犠牲者と認められたのはどういう人ですか?
コンパスで爆心地を中心として円を書き、その中にいる人は、この原爆手帳をもらえます。今日の福島を見ていても、私が間違いだと思うのは、簡単に円を書くことなどできないということです。放射能はそんなに均質に広がるわけではありません。その人が病気かそうでないかを決めるのは、距離だけでもないのです。
福島の原発周辺は、避難地域とされました。なぜ広島は同様に見限られ、居住不可と宣告されることはなかったのでしょう?
私は医師ではありませんが、それでも思うのは、両者を比較することはできないということです。福島周辺の地域では、この数週間来24時間常に、放射線が出ています。広島の爆発は巨大だったものの、ほんの一瞬でした。それに誰も広島の街から住民を避難させようとは思いませんでした。日本はアメリカの占領下に入り、むしろ広島に人がそのまま残ってくれた方がアメリカにとっては好都合だったのです。それは興味深い実験でした。私たちは採血されましたが、手当を受けるということはありませんでした。アメリカがビキニ環礁で原爆実験に着手した時、どのような爆弾が私たちの上に落とされたのか、初めて知ることとなったのです。しかし、アメリカ人が集めたデータは、日本で見つけることはできないでしょう。
今日、福島の消防士たちは自分たちがどのようなリスクを負っているか知っています。外林教授にとって、彼らは英雄ですか?
どうでしょう。彼らはひょっとしたら一種の洗脳を受け、強制されているのかもしれません。敵機に向かって自ら飛び込んだ神風特攻隊は英雄だったでしょうか?私はあの時代に育ち、日本の社会階級が厳格だった古い世代に属しますが、とてもそうは思えませんでした。ですから、われわれは若いうちに日本を飛び出し、私はドイツに、別の者はアメリカに渡りました。おかげで外国では人々がどんな暮らしを送っているのかがわかりました。今の日本の若い人たちは無精になり、ひきこもってしまって、容易には理解しがたいような人々がいるところに飛び込んで行かない、そんな印象を受けることが時々あります。
今日、外林教授は生徒たちに当時の自らの体験を話されています。若い世代の人たちは、原子力の危険について敏感に反応しますか?
日本の生徒たちは誰が悪いのかと問います。彼らの意見では、悪いのはアメリカ人です。ドイツの生徒は、もっとずっとエモーショナルに反応します。なぜ人間がそのようなことをすることができたのですか、と彼らは問うてきます。私が再び街に出て母親を探そうとした勇気はどこから来たのか、彼らは知ろうとします。私に勇気があったわけではありません。両親は私が医者になるのを望んでいましたが、それは叶いませんでした。これ以上血を見ることができなくなってしまったからです。血を見るのがいやなのです。それゆえに、私は化学者になりました。
外林教授の専門分野は物理化学です。
そもそも私はもう二度と放射線と関わりたくなかったのですが、でも、そうはいきませんでした。ダーレムの粒子加速器Bessyで仕事をした際に、エックス線と関わったからです。しかし、これは説明するのが本当に複雑です。新しい物質のための基礎研究でした。
オットー・ハーンが核分裂を研究したフリッツ・ハーバー研究所に勤務されていましたね。
ええ、1950年代、私はリーゼ・マイトナーと知り合う機会がありました。彼らのどちらも爆弾を作ろうなどとは考えず、基礎研究に従事していました。それは人間の好奇心と合致するものです。それをどう利用するかは、学問の問題ではなく、モラル、倫理、そして政治の問題なのです。
アメリカ人に原子爆弾の開発を要請したのは、アルベルト・アインシュタインでした。
ええ、ナチス・ドイツに対して効果的な武器を作ろうと考えたからです。しかし、アインシュタインは、その後はもう原爆の開発に関わることはありませんでした。彼は利用されたのです。
基礎研究に罪はないとお考えなのですね。
こう言うと矛盾して聞こえるのは承知の上です。それでもなお、私はそう信じているのです。
インタビュー:アンドレアス・アウスティラート、バーバラ・ノルテ
(ターゲスシュピーゲル紙日曜版 2011年3月27日。翻訳に際しては敬称略)