壁建設50周年の式典に際し、ドイツの各政党から贈られた花束
初めてベルリンに来た方に、ベルリンの壁の遺構を見せると、「意外に低いんですね」とか「背が高い人なら、よじ登れそう」という感想を漏らされることがあります。そう感じるのはやむを得ないことなのかもしれません。観光客によって削られ、中心部にわずかばかり残る1枚の壁を前にしても、当時そこで何が起きたかを想像するのは難しいからです。
今年の8月13日、壁建設からちょうど50年を迎えました。ミッテのベルナウアー通りでは、ヴルフ大統領やメルケル首相も参列しての追悼式典が行われ、同時に拡張工事が続けられていた「ベルリンの壁 記憶の場所(Gedenkstätte Berliner Mauer)」が正式にオープンしました。
同月のある日、地下鉄U8のベルナウアー通り駅で降りて、なだらかな坂を下りながら新しい部分を歩いてみました。外側の壁があったラインに沿って、茶褐色の鋼材の柱が壁を想起させるように並び、当時の無人の緩衝地帯は広大な芝生に変わっています。東独側の後背壁や金網の柵も一部は保存され、国境警備兵用の小道もその跡をたどれるようになっています。
敷地内をいくつも横切る、かつての逃亡トンネルの跡
芝生の上を歩いていると、茶褐色の板が地面に埋め込まれているのに気付きました。これは、かつてこの壁際に建っていたものの、東独政府によって爆破されたアパートの敷地跡でした。さらに、今度は緩衝地帯を横切る線が目に留まりました。これは1962年に東から西への逃亡を試みて掘られたトンネルの跡。このように、東西分断時代の出来事がさまざまな形で可視化され(ところどころに当時の写真や音声資料も設置されています)、訪れる人は歩きながら発見し、当時を具体的にイメージできるようになっているのです。
壁の建設によって爆破されたアパートの土台部分
シュトレーリッツァー通りから北駅方面を見下ろす眺めは、広々と敷き詰められた緑の芝生によって、爽やかな気分をもたらしてくれました。しかし、当時はこの芝生がすべて砂地で、厳密な監視網が160キロ近くも続いていたことを思い出した瞬間、今度は壁の恐るべき規模に思いが至りました。
特に多くの人が集まっていたのは、遺跡のような形で保存された当時のアパートの地下部分の周り。ここは「人々の苦しみ」というテーマで、ある日突然終わりを告げられた人々の日常生活や、引き裂かれた人間関係が綿密なリサーチに基づいて紹介されています。
「壁のことを知りたい」という気持ちでベルリンに初めて来る方に対して、私はイーストサイドギャラリーやチェックポイント・チャーリー跡よりも、まずこのベルナウアー通りに来ることをお勧めしたいと思います。
(ドイツニュースダイジェスト 9月9日)
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「背が高い人なら、よじ登れそう」 - 私の限られた東独体験だけでもそういうことはありません。有刺鉄線が張られて壁によじ登れば射殺されるか、もし張られてなくてもそれなりの防止策がとられていた筈ですから。朴政権下の南朝鮮も同じでしたが、軍事境界線でもあったところの様子は体験しないと分らないでしょう。米国TV映画で観ていたような冗談ではないかという状況が実際に存在していたのは間違いありません。
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私も初めて壁をこの目で見たのはたかが15年ほど前ですが、想像より低いものでした。周りは殺風景で雰囲気は多少残っていたかも知れませんが、もちろん東西分裂時代は壁に近寄ることすら簡単ではなかったと思いますが。。あと、数年前に一緒に観光していた友達に「この壁のこっちが東?西?」みたいに聞かれ、右も左もここは東であの川の向こうは西だったよと説明したら意味が分からんというような顔をされました。現存する壁も大事な歴史の証拠品ですが、今の明るいベルリンの中で見ると東西分裂時代の壁のあった風景は想像しにくいのでしょうね。。ベルナウアー通りも今度改めて見学してきたいです。
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人の心に造ってしまった壁。
取り除くことが出来るのでしょうか。
見かけでは、平和に見えるようです。
でも
今日もスマイル