今週を振り返ってみて、やはり自分の中で大きかったのが指揮者クラウディオ・アバド逝去のニュースだった。病状がよくないらしいと聞いていたので、そう遠くない先にこの日が来ることを予感はしていたが、悲しみと哀悼の気持ちが予想以上に長く続いている。それは、カラヤン、チェリビダッケ、ザンデルリンクといった巨匠指揮者が亡くなった時の感慨とは明らかに違う。直接の面識はないとはいえ、もっとずっと身近な存在だった人が亡くなったときの感情に近い。個人的な思い出話になるが、いくつかの時期に分けて振り返ってみたいと思う。
– 1990〜2000
私がクラシック音楽を本格的に聴き始めたのが、中学3年の夏だった。NHK-BSで放映されたカラヤン没後1周年の番組を録画し、特にベートーヴェンの《英雄》のライブ映像を飽きることなく繰り返し見た。アバドの映像を初めて見たのは、その秋(1990年)のベルリン芸術週間のブラームスの交響曲第1番で、若々しく颯爽とした指揮ぶりが鮮烈だった。その前年ベルリンの壁が崩壊し、テレビでアバドを初めて見たちょうどその前後に東西ドイツが統一した。アバドに出会ったのは、まさに世界が揺れ動いていた時期であり、私もまた多感な年代だった。
アバドの映像でブラームスの第1番が大好きになっただけに、1992年のアバド&ベルリン・フィルの初来日公演のチケットが手に入れられなかったのは悔しかった。だが、NHKがブラームスの交響曲第2番のサントリーホールでの演奏会を放映してくれたのはせめてもの慰めで、生中継の音楽を興奮しながら聴いた。当時はNHKが比較的よく海外の公演を放映してくれていて、ベルリン・フィルのジルベスター・コンサートは何より楽しみにしていた。もっとも、アバドの新譜が出る度に買うようなファンではなかったのも事実なのだが。
そして念願かなって、本拠地のベルリンでアバド指揮ベルリン・フィルを聴く機会が巡ってきた。早稲田大学のオーケストラの演奏旅行でドイツを初めて訪れた98年3月である。フィルハーモニーの上手側の一番上の席に他の仲間たちと座った。演目は、それまで馴染みのなかったマーラーの交響曲第3番。舞台場にところせましと並んだフル編成のベルリン・フィルを前に私は夢心地だった。アバドが舞台に現れ、さっと指揮棒を降ろした瞬間、8本のホルンが鳴らされたときの胸の高鳴り。その後のドスンと胸に響いたトゥッティの強奏。あれだけ音量が小さいのに、生き生きとしたたるピアニッシモ。安永徹さんの艶のあるヴァイオリン・ソロ。そして、終楽章の音の洪水・・・。あの夜受けた感動はいまでも色褪せることがない。
– 2000〜2002
大学卒業後、割と軽い気持ちでベルリンに来てしまったのも、あの時のマーラーが脳裏に焼き付いていたことが私のどこかに影響していたからだ、と言えなくもない。2000年9月末にベルリンにやって来て、まだ住む場所も決まっていないまま、最初に聴いたのが10月3日のベルリン・フィルの演奏会だった。演奏に先駆けて、聴衆全員が起立し、客席の奥の方で弦楽四重奏が美しいメロディーを奏でた。恥ずかしながら、私はこの時初めてこのメロディーがドイツ国歌なのだと知った(この日はドイツ統一10周年の記念日だった)。その時のベートーヴェンの《英雄》はそれほど印象に残っていないのだが、確かその翌日だったかに聴いたガラ・コンサートで私は目を疑った。舞台に割と近い位置で聴いたので、目を覆うばかりのアバド激やせぶりがあまりに痛々しかったからだ(もっとも演奏はすばらしく、この時聴いたロッシーニの《アルジェのイタリア女》のフィナーレ(?)は最高だった。残念ながら、アバドが指揮するオペラを聴く機会はやってこなかったけれど)。その公演は結構空席が目立っていたのだが、まさにその時期彼が胃ガンであるとの情報が世界に知れ渡り、それ以降彼のベルリンでの演奏会のチケットは入手困難になっていく。
10月から住み始めた私の最初のアパートは、フィルハーモニーから歩いて5分ほどの距離。とにかく刺激の強い毎日だった。もちろん、アバドの演奏会の一つ一つもよく覚えている。11月のワーグナー・プログラムで聴いた《トリスタンとイゾルデ》の《愛の死》の弦楽器の音のさざ波に乗って生まれる陶酔は、永遠の時間のようにさえ感じられた。その頃、ベルリンの音楽好きの間ではアバドの病状がよく話題になった。翌2001年1月、ギュンター・ヴァントの演奏会を聴きに日本からやって来た大学時代の先輩がふと、「あの様子を見ていると1年ともたないのではないか」と口にした時はドキッとした。私も半ば覚悟していた。
1月のヴェルディのレクイエムの演奏会の時は、氷点下の寒い中、フィルハーモニーの外で立ち見席を求めて並んだのが懐かしい。この時期は、聴衆だけでなく、おそらくベルリン・フィルのメンバーも、「ひょっとしたらこれが最後の舞台になるかもしれない」という気持ちを心のどこかで持っていたのではないかと思う。実際、それだけ全身全霊を込めた演奏会が続いたのだ。病と戦っているアバドへの共感と励ましの気持ちが、毎回のコンサートを特別なものにしていた。私たち聴衆は精一杯拍手を送ることしかできなかったけれども。
果たして、アバドは帰ってきた!5月頭のマーラーの交響曲第7番の演奏会は、このシーズンでもっともチケットが入手困難を極めていたのではないかと思う。幸い私は二晩聴くことができた。マーラーの《夜の歌》というのは、この時初めて生で聴き、その後もいろいろな指揮者で聴いたのだけれど、この時のアバドほど生の喜びにあふれた、天高く突き抜けるような演奏で聴いたことがない。複雑に錯綜した第1楽章も、ほの暗い夜想曲も、「死の舞踏」を思わせるグロテスクな第3楽章も、なぜかすっと心に入ってきた。そしてフィナーレで、120%の力を出し切ろうとするベルリン・フィルの合奏力のものすごさ!月並みな言い方になってしまうが、それはやはり死と戦い、死の際から還ってきた人間にした奏でられない音楽だったのではないかと思う。振り返ってみると、2000/2001シーズンというのは、私とクラウディオ・アバドという音楽家との関わりの中で特別な意味合いを持っていた。人が音楽を奏でることの根源的な意味をも突きつけられたし、今後の自分にとって何かしらの糧にしなければいけないとも思わせる種類の体験だった。
ベルリン・フィル音楽監督としての最後のシーズンはアバドらしい思索的なプログラムが並んでいた。メンデルスゾーンの交響曲《讃歌》とかシューマンのゲーテの「ファウスト」からの情景など。最後の演奏会がブラームスの《運命の歌》、ショスタコーヴィチの《リア王》のための映画音楽というのも、ずいぶん意表を衝かれた。文学や思想の分野にも造詣の深い、読書家のアバドならではの締めくくりだったと思う。最後のコンサートでは、フィルハーモニーの舞台に多くの花束が投げ込まれていたと記憶する。
– 2004〜2013
その後も、毎シーズン1回、決まって5月にアバドはベルリン・フィルを振りにやって来た。彼は退任後いつかのインタビューで、「私はこれまであまりに多くの演奏会を指揮し過ぎました」というようなことを言っていたが、ベルリン・フィル音楽監督の激務から解き放たれて、本当に自分が振りたい曲ばかりを選んで指揮しているように見えた。なにせチケット入手が困難だったので、毎回というわけではなかったけれど、数年に1回はアバドを聴くことができた。マーラーでは、第6と第4交響曲、そしてこの世ならぬ美しさをたたえた2011年の第10番《アダージョ》が印象深い。ベルクの歌曲やブラームスの交響曲第3番もよかった。そして、昨年5月のメンデルスゾーンの《真夏の夜の夢》とベルリオーズの幻想交響曲が最後の機会となった。
享年80歳。長寿が多い指揮者の世界では、格別の高齢ではなかったかもしれない。できれば、彼が指揮するオペラを聴いてみたかったとか、マーラーの《復活》を体験してみたかった、などの思いも若干あるけれど、ガンと戦い始めたあの当時、まさかこれほど長い間、私たちに音楽の恵みを届けてくれるとは正直思わなかった。そして、アバドは私にとって音楽だけの存在ではなかった。1990年以降の「新しいドイツ」のイメージを、コール首相やシュレーダー首相以上に、このイタリア人音楽家が担っていたと言っても過言ではなかったからだ(あくまで私にとっては、だけれど)。自分の人生はまだまだ続くが、今後何か困難なことに直面した時、アバドさんが全身全霊をかけて音楽で伝えようとしていたいくつもの姿を思い出したいと思う。
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こんにちは、いつも楽しく拝見しております。書いておられた98年3月の演奏会、ちょうどStuttgartに留学中だった私もベルリンに行って聴きました(金曜日のコンサートだったはずです。同じ日でしょうか?)。懐かしい思い出です。個人的にはあの演奏は、予想と大きく違った演奏で、何かこう釈然としないというか心にストンと来なかった、ということでよく覚えております。
それはともかく、私もアバドの死去は時代の移り変わりを感じさせるニュースでした。残念です。
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楕円球さん
ご無沙汰しています。久々のコメントをありがとうございました。
98年3月の演奏会のことは、確か以前もどこかで書いてくださっていたように記憶しています。私が聴いたのもおそらく金曜だったと思います。ワセオケの本番は日曜日のマチネーだったのですが、僕ら学生は、「普段こんな演奏を聴いている人たちの前で演奏するのか・・・」とさすがにちょっと尻込みしましたね(笑)。
あの時の演奏会をご一緒していたとはご縁を感じます。
今後ともよろしくお願いします。