1ヶ月以上間が空いてしまいましたが、昨年11月にアウシュヴィッツを訪れたときの話を再開しましょう(といっても残り2回です)。前回お伝えした異様に広大なビルケナウ第2収容所から現在ミュージアムとなっているアウシュヴィッツ第1収容所までは、線路を越えて車で10分足らずの距離ですが、観光バスの数を見ても、訪れる人の数は比較になりません。「Arbeit macht frei(働けば自由になる)」と書かれたあの門をくぐって収容所内に入ります。
ビルケナウとこのアウシュヴィッツの第1収容所は、建物の作りもスケール感も全く異なる。がっちりしたレンガ造りの建物からは、「殺人工場」という雰囲気はなかなか感じられない。というのも、もともとここにあった22棟の建物は戦前のポーランド軍の兵営で、「(ナチスが)それらに数棟の木造の建物を追加・整備し、逮捕したポーランド人政治犯をドイツ西部へ連行するまでの『一時隔離所』として使おうとしたのです」(中谷剛著「アウシュヴィッツ博物館案内」より)。
1940年4月に収容所の設立命令が下された時点では政治犯の「一時隔離所」だったのが、そのわずか翌年にビルケナウの第2収容所が作られ、1日に数千人単位でベルト・コンベアー式に人が殺される殺人工場へと発展した・・・
ということが頭ではわかっていても、1年余りに起きた出来事の間にある想像を絶した飛躍ぶりが、ミュージアム内の実物の展示物を見ても、実感として理解できなかったのだった。
先日多木浩二氏の「戦争論」(岩波新書)という本を読んでいたら、こういう箇所に出会った。
(「ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅」の)著者ヒルバーグが指摘するところによると、ナチは政権を掌握した1933年から、すでにこのような絶滅計画に到達していたわけではなかった。1933年には1938年のポグロムは想像できなかったし、1938年には1941年のガス殺は予想できなかった。
ヒルバーグが言うように、たんなる虐殺と絶滅とは違う。ユダヤ人の絶滅計画は、次のようなステップを順に追った歩みをたどった。
まず「ユダヤ人」という概念が確定され、ついで財産収用が開始され、そしてユダヤ人のゲットー収容、最後にヨーロッパ・ユダヤ人の抹殺が決定された。移動殺戮部隊がロシアに派遣され、その他のところでは犠牲者たちは絶滅収容所へ移送された。
この順を追った発展は、気味悪いほど行政的な機構の活動である。官僚は手続きをこなすことに精一杯だった。実際には絶滅にいたる過程は1本の道のようにつながっていたのだが、最初の法手続きの一歩が次の一歩をひきだす行政の過程を踏んでゆき、やがてこれらの手続きが省略されるときになって、過程は一挙に進みだし、最終解決にいたるまで確実に進められたのである。
第4ブロックには、靴、髪の毛、衣類など、犠牲者からの没収品が展示されている。これは収容所に送られた人たちのトランク。すでに写真を通して見たことはあったが、実物を前にしてやはり衝撃を受けた。
第11ブロックの中庭の壁は、数千人の囚人(多くがポーランド人だったという)が銃殺され「死の壁」と呼ばれている。
第一クレマトリウムの隣にあった処刑台。
焼却炉・ガス室の第一クレマトリウム。
一通りを見終え、くたくたになって出口に向かって歩いていたら、あのポプラ並木の向こうにきれいな夕日が広がっていた。アウシュヴィッツでこのような美しい夕暮れに出くわすとは、よもや思わなかった。
今回一緒に見て回った友人から聞いたのだが、奥さんのカーシャさんの警察官だった曾おじいさんは、第2次大戦中の「カティンの森事件」で殺されているのだそうだ。「ソ連国内のスモレンスクにほど近いグニェズドヴォ (Gnezdovo) 村近くの森で25,000人のポーランド人がソ連のNKVD(ソ連の内務省、秘密警察)によって裁判無しに銃殺された事件」(ウィキペディアの記述より)の存在を、恥ずかしながら私は今回ポーランドに行くまで知らなかった。
現在開催中のベルリナーレのコンペ部門で、この事件を取り扱ったアンジェイ・ワイダ監督の新作「カティン(Katyn)」が来週末に上映される。監督自身の父親もこのときの犠牲者だという。80歳を越えたワイダ監督をこの映画に向かわせたモチベーションは何だったのか。アウシュヴィッツとの直接の関連はないものの、それらはいまだにアクチュアルな問題であり続けている。
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「順を追った発展」は、現在でも通じますね。例えば外国人問題を扱う場合、「同化」-「同化失敗」-「制裁」-「退去」、ここまではコッホなどの政治家の「現実的な対応策」ですが、同時に「ゲットー化」-「隔離」もしくはトルコ首相の主張する「植民地化」-「差別化」は同時に「確執」-「制限」-「強制収容」-「僻地輸送」-「抹殺」-「完全処理」となることに変わりません。どの段階においても双方にとって理に適っているのです。
なぜドイツ連邦共和国がコソヴォ紛争に軍事介入したかは、この歴史的な教訓以外の何ものでもありません。
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僕も去年の年末にアウシュビッツに言ってきました。第一収容所は展示物とともに、そこで何が起こったのか順を追ってを詳しく見学できるようになっていて、興味深いと思っただけでしたが、ビルケナウは問答無用で恐怖を感じました。案内してくれたガイドさんの友人は、週少女の開放の数日前にアウシュビッツで生まれて腕に番号が刻まれていると言っていて、その割と最近の歴史を生々しく実感しました。
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こんにちは、はじめまして。
何度かブログを見させてもらってますが、コメントするのは初めてです。
個人的なことですが、年内にドイツへ引っ越すことになり、
最近になって、ドイツについて、とても興味をもつようになりました。
マサトさんのブログを読んで、勉強(?)させていただいてます。
アウシュビッツもTVでしか見たことがないんですが、
一度は訪れてみたい場所です。
これからもブログ楽しみにしています。
長々と失礼しましたm(_ _ )m
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>pfaelzerweinさん
なるほど、時代も政治体制も違うとはいえ、「順を追った発展」を見比べると興味深いですね。ただ、ナチスの時代と違って、その発展段階は基本的に白日のもとにさらされるわけですから、大事なものを見落とさないようにしたいものです。それにしても、ドイツでの外国人統合問題は本当に深刻です。
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>West Mountainさん
これはお久しぶり!同じ場所に行っていたとは知りませんでした。ガイドを頼んだのは正解かも。僕は後になって、大事なところを見逃していたのを後悔しました。
>「週少女」
一体何のことかと2分ぐらい悩みましたが、「収容所」のことですね^^;)
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>cocoa-mikoさん
はじめまして、ブログ拝見しました。
ドイツ語、最初はややこしく感じられることが多いと思いますが(実は今でも十分ややこしいです・・)、なるべく楽しみながら学ばれることを願っています!また遊びに来てくださいね。