「壁とベルリン」第3回 – 16歳、亡命への道 –

Erinnerungsstätte Notaufnahmelager Marienfelde (2009-06)
自宅の玄関の扉を開けると、初老の男性が待っていた。ゲルハルト・メシングさん(63)。筆者の知人の中に父親が壁を越えた体験を持つという方がおり、ご好意により当時の現場に行って話を聞かせていただくことになったのである。
現場に向かう車の中で、メシングさんは自身の来歴について語ってくれた。両親は東プロイセンのメールザック(現ポーランド)に住んでいたが、第2次大戦末期の1945年3月、お腹に自分を抱えた母親は子ども2人を連れてデンマークに逃れて来た(父親は出兵中で、後に戦争捕虜となる)。終戦の年の8月31日、メシングさんはそこで生まれる。ブランデンブルク州のヴォリンに5年間住んだ後、東ベルリンのトレプトウ地区にあるアルト・グリニケに越して来た。
50年代当時はまだ東西ベルリン間の行き来が可能で、メシングさん自身西側の隣町ルードウに買い物に行ったり、映画を観に出かけたりしていたという(毎週日曜は東の50ペニヒで映画を観られたそうだ)。オレンジ類や牛肉は手に入らなかったが、ひもじい思いはしなかった。ただ、連日4千、5千もの人々が西側に逃れている事態をRIAS(西ベルリンのラジオ局)が盛んに伝えていたことはよく覚えている。
61年8月13日、状況は急変する。自宅のある通りAm Kiesbergの向こうに、突然鉄条網が張り巡らされた。メシングさんは亡命を決意。だが、この月末に16歳の誕生日が来るのを待った。なぜか?16歳以下の者は、たとえ亡命に成功しても、未成年者として再び東側に連れ戻されてしまったからである。
当初はもう1人の同級生と実行するつもりだったが、直前に近くの運河を泳いで渡ろうとした人が射殺されたニュースを聞き、彼は怖気づいてしまった。メシングさんが1人で鉄条網(この時点ではまだ壁ではなかった)を越えようと試みたのは、9月7日の深夜である。
Am Kiesbergの道が途切れる場所からは野原が広がっている。あれからほぼ半世紀が経とうとしているが、メシングさんは当時の状況をリアルに語ってくれた。「ここに小さな詰め所があって、衛兵が立っていました。そこから向こうは立ち入り禁止だったんです」。森までは約100メートル。その間に2本の鉄条網が立ち構え、ロープでつながれた番犬がうなっていた。見張り台はサーチライトを照らしていたが、メシングさんは数日前からすべての位置を確認して、死角を見つけていた。父親からこっそり持って来た溶接用の大きな手袋をはめて鉄条網をこじ開け、ケガをすることなく丘の上を越えることに成功した。
悪天候の夜だった。西側のルードウにたどり着くと、雨でずぶぬれになったメシングさんを見つけた警官が「泳いで来たのか?」と聞いてきた。「これからどこに行けばいいのかわかるか?」「はい」。警官は彼を車で最寄りのバス停まで連れて行き、自分の財布からバス代50ペニヒを渡して去った。向かったのはマリーエンフェルデにある臨時収容施設。「私はほかに東ドイツの身分証明書しか持っていなかったので、この50ペニヒからすべてが始まったのです。亡命のことは両親にも伝えていませんでした。ただ、西ベルリンの親戚を通じて、私の無事は知ったようです。両親にその後初めて会ったのは、定年になった父親が西ベルリンを訪問する自由を得た69年のことです」。頭では理解していても、平和な日本で育った私にはなかなか実感できない。
「まだ残っていた!」。壁よりも古い鉄条網の鉄骨跡を見つけて指し示すメシングさん
メシングさんが亡命を試みた一番の理由は、「自分が行きたい場所に行く自由のため」。14歳のときに、学校の地理の時間で日本のことを学び、いつか行ってみたいという思いを抱き続けていた。西ドイツに亡命した後、ハンブルクで船員学校に通い、東京オリンピックの64年に船乗りとして初めて日本に渡った。やがて日本人の夫人と出会い、現在に至る。
「人生のモットーは?」と聞くと、“Leben und leben lassen“という答えが返ってきた。「生きたいように生き、他人にもまた干渉しない」という意味になるだろうか。
ドイツニュースダイジェスト 7月3日)

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4 Responses

  1. 加代子
    加代子 at · Reply

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       今日は~!

    東と西を隔てた(鉄条網)を超えて来た人が私と同年輩・・・
    その後は色々とご苦労がおありだったでしょうねェ。

    主人は'73年から何度も ベルリンのジーメンズ街に出張があったので
    壁は見たそうですが 私は今年初めて壁の残骸を見ましたが
    ピン!とは来ませんでした・・・・

  2. tsu-bu
    tsu-bu at · Reply

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    16歳の少年が命をかけて獲得した「自由」。そのきっかけが、日本への想いだったのですね。「生きたいように生き、他人にもまた干渉しない」ことが、メシングさんにとっての「自由」なのだと思いました。
    マサトさん、お忙しそうですがご自愛くださいね。

  3. ジョニィー
    ジョニィー at · Reply

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    こんばんは(日本時間)。ご無沙汰いたしております。
    メシングさんは、凄い人生を歩んでいますね。
    学校で習った地理の教科書から、日本への夢を胸に鉄条網を切断して船員となって来日し、日本人女性との恋を実らせて結婚されたこと、小説かと思われるようなあらすじですね。
    鉄条網を脱出することさえ難しいことなのに、それを決行して日本にたどり着き、日本女性と恋を実られたなんて信じれません。
    聞き取って原稿にまとめて世に発表すれば有名になりますよ。
    映画「鉄条網を越えた恋」を製作すれば、見るものに感動を与えると思いますが、いかがでしょうか。

  4. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    加代子さん
    メシングさんのお話は、その後も実に興味深いです。
    優に1冊の本になるでしょうね。私もまた伺いたいと思っています。

    tsu-buさん
    メシングさんが命をかけて獲得した「自由」の意味は大きいです。「自由など最初からあって当たり前」だとつい思ってしまいがちですが、そうではないのですよね。

    ジョニィーさん
    お久しぶりです。
    メシングさんの歩みは、確かにドラマチックですよね。実際は、淡々と当時のことを語る中に、意思の強さを感じさせる方でした。

    akiさん
    はじめまして。サイトで紹介いただけるのはとてもうれしいです。
    どうぞよろしくお願いします。

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