何のあてもないまま、私がベルリンにやって来たのは2000年の9月25日。高橋尚子がシドニー五輪で金メダルを獲得した翌日だ。いつの間にか、丸12年を迎えたことになる。2年前の10周年のときも一区切り付いた感じだったが、ベルリンで12年間を過ごしてきたことにも感慨がある。というのも、ナチスが政権を握ったのが1933年1月末、第2次世界大戦でドイツが降伏したのが1945年5月。12年という歳月は、ナチスがベルリン、そしてドイツ(に留まらないが)を支配していた年月にほぼそのまま当てはまるからだ。
12年間という年月は、私の経てきた人生の約3分の1の長さ。それなりに長かった気もするが、あっという間に過ぎ去った感覚も確かにある。世紀という単位で見れば、5分の1に過ぎない。なのに、70年以上昔の12年間が、いまもドイツでは繰り返し語られ、メディアで報じられる。新しく記念碑が建てられたり、著名人の誰々が当時ナチスに関わっていた事実が明るみになって社会問題になったりもする。
あの12年とは何だったのか。身近なところで考えさせられる出来事がここ最近続いた。
昨年9月半ば、グルーネヴァルト駅17番線の記念碑に日本からのお客さんを連れて行ったときのこと。夕刻の時間だった。かつて多くのユダヤ人が強制収容所に連れ去られたホームの周囲は閑散としていたが、記念写真を撮っていたとき、ホームに降りる階段に60代後半ぐらいの女性が座り佇んでいるのに気付いた。ほっぺに手を当て、視線は遠い空の方を向いていた。涙を流しているようにも見えたが、それは定かでない。その悲しみの表情が、映画『ベルリン・天使の歌』の地上防空壕の撮影シーンでワンカットだけ登場するユダヤ人女性の表情にそっくりだと思った。近くにいた私と同年代ぐらいの男の人に写真を頼まれ、ふと聞いてみたら、案の定彼女の息子とのことだった。彼らはイスラエル人。旅行でベルリンを訪れ、ホロコーストで犠牲になった親戚を偲ぶためにここに来たのだという。それにしても、あの年配の女性の悲しみの表情が忘れられない。70年も昔に起きたことだという事実を忘れさせる生々しさがあった。
昨年9月のある日、知人のインゲさんという年配の女性が突然亡くなったと聞かされた。親しい知人を通して知り合い、10代半ばの孫娘が日本に興味があるというので、何度か食事を共にする機会があった。実際にお会いしたのは計3回に過ぎないのだが、それでも強く印象に残っているのが、ご自宅で夕食をご馳走になったときのことだ。彼女のアパートは、女優マレーネ・ディートリッヒのお墓があるシェーネベルクの墓地のすぐ近くにある。「ディートリッヒの遺体があの墓地に埋葬された日、私はここから様子を見ていたわ。すごい人出が押し寄せて、警備も厳重だった」と話した後、インゲは「マレーネ・ディートリッヒって人知ってる?」と孫娘のアンナに語りかけた。「名前は知っているけれど」という若いアンナに対し、インゲはディートリッヒのことを説明し始めた。映画女優としての活躍だけでなく、ナチを嫌悪してアメリカに亡命したこと。第2次世界大戦中は戦場を訪れ、歌でアメリカ兵を慰安したこと。そのため、ディートリッヒが戦後ベルリンに戻ってきたときは、一部のドイツ人から非難と罵倒さえ浴びたこと…。私が聞いてもわかりやすく、かつ正確に話すので驚いたのだが、インゲは昔歴史の先生だったのだそうだ。「どうりで」と思ったら、そこから思わぬ方向に話が展開した。「私の父はナチだった」というのだ。
インゲはかつて東プロイセンと呼ばれた現在のポーランド領に生まれた。父親はドイツ国防軍の将校で、彼女が4歳の1944年にソ連で戦死している。翌年ドイツが敗戦を迎えると、突然故郷を追われ、一家は命からがら逃れて来たのだそうだ。父親が早くに亡くなった悲しみの一方、ナチスに信奉していたことで、父親に対して複雑な思いを抱えていたようだった。しかし、10年ぐらい前だったか、数10年ぶりに故郷を訪れ、初めて父親のお墓を訪ねたとき、いままでのわだかまりが溶けたという。「私ぐらいの歳になって、過去について語り始める人がドイツでは増えているの」とインゲは言った。
インゲの死後、共通の知人からインゲが出版したという本を見せてもらった。「Gegen das Vergessen(忘却に抗って)」というタイトル。「ベルリンのプレンツラウアー・ベルク地区フェアベリナー通り92番地 ユダヤ人の孤児院の記憶」とあり、その孤児院にいた子供や先生たちの足跡をたどった記録だ。びっくりするぐらい詳細な記録と写真に埋められた本をめくり、インゲがどういう気持ちでこの仕事にのめり込んでいったのだろうかと思った。インゲは、戦争の被害者と加害者の子供同士が交流をする組織「One by One」でも熱心に取り組んでいたそうだ。
もっといろいろ話を聞いておきたかった。その機会が失われたいま、後悔の念が強く残る。
昨年10月にはミシェル・シュヴァルベさんが91歳で亡くなった。シュヴァルベさんはユダヤ人のヴァイオリニストで、1957年から1986年までベルリン・フィルのコンサートマスターを務めた偉大な音楽家。それまでスイス・ロマンド管弦楽団のコンサートマスターだった彼が、ベルリン・フィルのコンマスに請われたのはカラヤンからの熱烈な誘いがあったからだった。「でも私はそこで半年間も悩みに悩んだんだ。ナチスの牙城だったベルリンに行くべきかどうかでね」といつかお話を聞かせてくださった。シュヴァルベさんが戦時中スイスに亡命している間、ポーランドに残った母親はトレブリンカ強制収容所で虐殺されていたのだ。彼はそのことを決して話題に出さなかったし、没後の報道でそれがトレブリンカだったことを私は初めて知った。
被害者側の癒えぬ思い、加害者側の苦悩。そして身も蓋もない事実として、あの12年間を直に生きた人は、そう遠くない将来この世界からいなくなる。奇しくも今年はヒトラーが政権を獲得してから80年にあたり、ベルリンでは多くの記念行事が予定されている(詳細はこちらより)。さまざまな立場の人の思いを、今のうちに少しでも多く聞いておきたいと思っている。
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中村さんがなさっていること、なさろうとされていることが、いつか必ず生きる時があります。当たり前のことを言うようですが、過去は現在に、現在は未来に繋がっています。中村さんにしか歩めない道を、どうぞ迷うことなく進んでください。
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大作さん
勇気づけられるメッセージをありがとうございました。何かの形になるかどうかわかりませんが、残された時間から見て、自分の中では今優先的に取り組みたいテーマなのです。来週大事なインタビューが1つ入ったので、がんばりたいと思います。