インフォメーションセンターから収容所通りと呼ばれる通りを経て、ようやくザクセンハウゼン強制収容所の入り口にやって来た。中心に位置するA塔(“Turm A”)から中に入る前に、この位置の右手にある新博物館(Neues Museum)の見学をお勧めしたい。ここには、ザクセンハウゼン強制収容所の前身にあたるオラニエンブルク強制収容所と、東独時代の記念施設の歴史をテーマにした展示が並んでいる。オラニエンブルク強制収容所は、ヒトラーが政権を取った約2ヶ月後の1933年3月21日、中心部の元ビール工場内にプロイセン初の強制収容所として設立された。特にナチスから政治犯と見なされた人々がここで屈辱的な仕打ちを受け、中には殺害された人もいた。1934年7月13日に閉鎖されるまで、3000人以上の人がここに拘留された。
展示部分を抜けると、小さなカフェテリアとトイレがある。ものすごく広大な強制収容所の敷地にトイレはないので、ぜひ最初に立ち寄っておきたい。
さて、有名な「労働する者は自由になる」の標語が刻まれたドアを抜け、いよいよ収容所の入り口であるA塔を抜けて敷地内に入る。誰もがこの広さに圧倒されるだろう。かつてはこの奥に、4列に渡って68棟のバラックが並んでいたのだ。
中に入ると、かつて点呼広場(Apellplatz)と呼ばれた半円状の広場がある。ここで1日3回、後には朝と夜の2回、囚人が点呼を受けなければならなかったことからこの名が付いている。雨や雪が降ろうが、一回の点呼はしばしば数時間にも及んだという。この記念碑の場所には、絞首台が置かれていた。点呼広場に整列した収容者の前で見せしめを目的とした処刑が行われたのである。クリスマスの時期になると、親衛隊はここにクリスマス・ツリーを立てたという・・・。
奥に2つのバラックが見える。左は収容者の洗濯場だった建物。右は収容者用の調理場だ。調理場にはザクセンハウゼン強制収容所で起きた主要な事柄に関する展示があり、必見と言える。
ナチス時代の収容所跡をこのブログで紹介するのは、これが3カ所目になる。最初は、2007年11月に訪れたアウシュヴィッツ(現ポーランドのオフィシエンチム)。一般的によく知られているのは第2のビルケナウの方だろう。絶滅収容所(Vernichtungslager)と呼ばれ、主にユダヤ人を殺害するため「だけの」目的で造られた殺人工場である。2番目は、2010年5月に訪問したテレージエンシュタット(現チェコのプラハの近く)。ここはマリア・テレジア時代の要塞を利用して使われたゲットーであり、町全体が強制収容所のような特異な場所だった。ご興味のある方は当時の記事をご覧いただけたらと思う。
それらに対して、このザクセンハウゼンは強制収容所(Konzentlationslager)だった。私が以前読んだ日本語のガイドブックには、「1945年までにここで10万人以上のユダヤ人が犠牲になった」と書かれていたが、大きな誤解を与える表現だ。ここに収容されたのはユダヤ人だけでなかったし、アウシュヴィッツやトレブリンカといった「絶滅収容所」とは目的が明確に異なった。もちろんザクセンハウゼンの収容者は過酷な条件のもとに置かれたが、絶滅収容所に比べると、生き残れる可能性は「それでもまだ」ずっと高かったということも留意すべきではないかと思う。
1936年7月、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがドイツ警察長官に任命されてから初めて建てられたのが、このザクセンハウゼン強制収容所だった。ここの大きな特徴は、首都のすぐ近郊に位置していたこともあり、ナチズムのモデルとなる強制収容所の役割を担わされたことだ。正三角形の底辺の中心に位置するA塔の前に立ってみると、ここからバラックの収容者に対して絶対的に服従させる構造になっていることがよくわかる(画面左上)。施設は次第に拡張され、ドイツの支配下にあった全ての強制収容所の管理本部、SSのための住居などが造られていった。終戦時には、オラニエンブルク市の3分の1近くの敷地が強制収容所だったというから驚くほかない。右手下には1940年に建てられた悪名高きレンガ工場が見える。最近読んだロジャー・ムーアハウスの『戦時下のベルリン』(白水社)には、こう書かれている。
煉瓦工場の作業環境は恐るべきものだったので、最初から懲罰分遣隊に入れられた囚人のためのものだった。そこで働く囚人の平均余命はわずか3ヶ月で、ザクセンハウゼンの平均余命より遥かに短かった。
当初ここに収容されたのは、ナチ政権の政治犯が多かったが、やがて、ユダヤ人やシンティ・ロマなどナチによって劣等と見なされた民族、同性愛者、1939年の開戦後はドイツ占領下のヨーロッパ諸国から多くの人々が送られてきた。1936年から45年までの間に20万人以上の人々が収容され、数万人が飢えや病気、強制労働、虐待のために命を落としていった。これは、かつて拷問のために使われた台らしい。
1939年10月28日のチェコスロヴァキアの独立記念の日、プラハでドイツの占領に対してのデモが行われ、1人の学生が殺害された。プラハの学生たちは衝撃を受け、さらなる抗議行動をした。それに対しゲシュタポは9人の学生を処刑し、保護領内の全ての大学を閉鎖。そして、1140人ものプラハと他都市の学生をザクセンハウゼンへと強制連行したのである。左の手紙は、11月20日、ある学生がチェコの両親のもとに宛てた葉書。自分の健康状態が良好であることを伝えているが、実際はもちろん、ドイツ語でそう書くように強制されていたのだった。
調理場の地下には、当時収容者が食事のためのじゃがいもの皮を剥かされていた地下室がある。ここに残されているいくつかの壁画は、ナチス時代の強制収容所、そしてその後のソ連特設収容所の時代に、囚人が描いたものだそうだ。人間のユーモアの精神はこんな状況下においても発揮されてしまうものなのかと、ここに来る度に驚きを禁じ得ない。(つづく)