71回目の広島・長崎の原爆投下の日に際して、2年前の2014年夏に広島を訪れたときのことを書いてみたくなった(このときの旅行記は1年前に一度書いたきり、止まったままになっていました)。
広島を訪ねたのはようやくこれが2度目。2006年11月に初めて訪れたときのことはブログに書いたことがある。
それから広島を再訪するまでの8年間を振り返ってみると、自分の中で大きな出来事だったのは、16歳のときに広島で被爆され、後に科学者となった外林秀人先生(1929-2011)との出会いだったと感じる。何度かお話を聞く機会に恵まれた中で決して忘れられないのは、原爆の直接の体験談ではなく、沈黙を守ってこられた時間の重さだった。
2年前の8月12日の朝、広島駅に近いホテルから世界平和記念聖堂に歩いて向かった。限られた滞在時間の中、できるだけ多くの原爆関連の場所を見て回りたい。そこで、前の日に広島に詳しい友人にいくつかお勧めの場所を教えてもらい、最初に向かったのがここだった。
教会の中は、パイプオルガンの調べ(おそらく録音だったと思うが)が聞こえてくる中、えもいえぬ静謐な時間が流れていた。この場所に世界平和を祈念する教会を作ろうと思い立ったのは、広島で被爆したドイツ人の司祭、フーゴ・ラサールだったという。おそらくその関係だろうか、パイプオルガン(ケルン)、説教台(ミュンヘン)、玄関扉(デュッセルドルフ)など、ドイツから寄贈されたものがいくつもあった。展示コーナーには、ヨハネ・パウロ2世(1981年)、マザー・テレサ(1984年)がここを訪れたときの写真も飾られていた。世界の人びとからの祈りの総意が静かに伝わってくるような、感銘深い場所だった。
そこから原爆ドームの方までやって来ると、さすがに観光客で賑わっていた。外国からのお客さんも多い。前日に広島駅でもらったパンフレットには、被爆者の体験談を聞ける機会についての情報も載っていたが、残念ながら都合が合わなかった。それでも、この周辺ではボランティアでガイドをしている年配の方によく出会う。川のたもとで案内をしていたガイドさんに爆心地の近くに残る地蔵のことを教えていただき、見に行ってみた。
島病院(この上空600メートルで原爆が炸裂した)の近くに被爆地蔵尊があった。石の台座のところには濃い影がいまも残る。
平和記念公園のある中島町で、唯一戦前からの建物として残った「燃料会館」。現在は観光案内所として使われている。残念ながら見逃してしまったが、地下部分は原爆投下時の状態のまま保存してあるという。
平和記念公園を歩いていると、在日韓国人の犠牲者の慰霊碑にも出会った。
汗をかきながら次に目指したのは、太田川を渡ったところにある本川小学校。鉄筋建ての校舎の一部が平和資料館として残されている。
資料館の中には、原爆投下直後の模型が展示されていた。原爆ドームを川を隔てた反対側(左側)に本川小学校の印が見える。
別の角度から原爆投下前と投下後を並べた写真。右の奥に本川小学校が見える。
ここで驚いたのは、原爆慰霊碑の有名な碑文のオリジナルに出会ったこと。自身被爆者で、広島大学の英文学者だった雑賀忠義教授が揮毫(きごう)したものだということを知った。
本川小学校の校庭で遊ぶ子どもたちの様子をとらえた印象深い写真。戦後何年ぐらい経ってから撮られたものだろう。写真の下に、「校舎は少しずつ整いましたが、子どもたちの服装はそろっていません。ぞうりやゲタをはいた子もいます」と書かれていた。
2年前のこの旅行のときにはまだ想像するのさえ難しかった、オバマ大統領の広島訪問がこの5月に実現した。NHKの中継映像のおかげで、私もリアルタイムでその様子を見ることができた。大統領の広島訪問や演説の内容についてはさまざまな見方や意見があると思うけれど、私はあの演説の後、大統領が被爆者の方々に歩み寄って、談笑している映像を見たとき、重い気分から解放されるような安堵の気持ちを覚えたことはやはり否定できない。外林先生があの場にいたらどうだっただろうと思う。笑みは見せないかもしれないが、きっと大統領への歓迎の気持ちを言葉にされたのではないかと思う。
「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」の碑文のことを調べていたら、この「過ち」の主語をめぐって建立以前から論争があったことを知った(Wikipediaのこの記事の「碑文論争」を参照)。1952年、「原爆を落としたのはアメリカ人なのだから、日本人が自分に謝罪していると解釈できるこの文面はおかしい」という非難に対して、上記の雑賀忠義はこう反論したという。
「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない。」
平和記念資料館も再訪した。特にじっくり読んだのは、アメリカが原爆を投下するまでの経緯を紹介した箇所だった。ポツダム会談が行われたツェツィーリエンホーフ宮殿は時々案内の仕事でも訪れるので、トルーマン大統領がポツダムで原爆投下を決定するまでの過程にはやはり興味がある。
この説明を読むと、ドイツが降伏した5月7日のちょうど3ヶ月後が、広島に原爆が落とされた8月6日に当たる。トルーマンはポツダムにいた時期、アメリカの最大のライバルであるソ連のスターリンと連日顔を合わせていた。そのようなことからトルーマンの原爆投下の意図は明確だと思っていたが、最近放送されたNHKスペシャル「決断なき原爆投下~米大統領 71年目の真実~」では、彼が明確な決断をしていなかったという事実も明らかにされた。番組のまとめを読むと、やるせない気持ちになる。
最後にもう一度原爆ドームの横を通って駅に向かおうとしたら、原爆投下以前のこの周辺の街並を再現した地図を見つけた。現在の原爆ドームの左隣に記された「田邊(軍人)」の名前を見て、あっと思った。ここにお住まいだった田邊雅章さんには、4年前にベルリンの日本大使館での講演会でお目にかかったことがあるからだ。
広島の世界平和記念聖堂に近い意味合いの場所をベルリンで探すと、やはりカイザー・ヴィルヘルム記念教会だろうか。この8月5日、ここでIPPNW(核戦争防止国際医師会議)のチャリティーコンサートが行われた。日本人とアメリカ人の両親を持つギャレット・うみさんによるピアノ演奏、そして(『考える人』の連載記事でも最近書いた)ペーター・ハウバーさんの科学者の視点からのスピーチを聴きながら、遠い広島に思いを馳せた。