外林秀人さんインタビュー(1) -ベルリンほど原爆に安全な場所はなかった-

8月にインタビューをさせていただく機会のあったベルリン在住の科学者、外林秀人さんの記事が今週号のドイツニュースダイジェストに掲載されました。字数の関係で掲載できなかった部分も含め、これから3回に分けて再掲したいと思います。大変興味深い内容なので、お読みいただけると幸いです。
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外林 秀人 
そとばやし・ひでと
工学博士
1929年長崎市生まれ。16歳の時に広島で被爆。京都大学工学部を経て、マックス・プランク研究所教授、ベルリン工科大学非常勤教授(高分子物理化学)を歴任。1994年定年退職、ベルリン在住。
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ポツダム会談の会期中の1945年7月25日、トルーマン米大統領は、当時滞在していたポツダム市郊外のグリープニッツ湖畔の邸宅で、日本への原爆投下命令を下したと言われている。あれから65年が経った今年7月25日、歴史的な邸宅の前の「ヒロシマ広場」にて、新しい記念碑の除幕式が行われた。この「ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会」の中心メンバーの1人として記念碑設立に尽力してきたのが、外林さんである。
外林さんは、1957年にフンボルト財団の奨学生として海を渡って以来、科学者としてほぼ途切れることなくベルリンに住んでいる。壁の建設、東西冷戦の実情、そして壁の崩壊に至るまで、直に体験してきたベルリンの昔の話からインタビューは始まった。

1957年、28歳の時にフンボルト財団の奨学生としてベルリンにやって来ました。当時すでにヨーロッパへ飛行機が飛び始めていましたが、京都大学の高分子学科の桜田先生は、「お前はまだ時間があるのだから、船で行きなさい」とおっしゃるので、神戸からジェノヴァまで貨物船に乗って約4週間かけてヨーロッパにやって来ました。
1961年8月13日は、車でイタリアを旅行していました。現地の新聞が盛んにベルリーノと報道していて、そこで壁ができたことを知ったんです。もちろんびっくりしましたが、自分にとって一番大事な所有物である車は持って出ていたので、急いで戻る必要もないなと。その約1週間後、ベルリンに帰る時に、ちょうどハノーヴァーからアメリカ軍の戦車が西ベルリンに入るのにぶつかって、一緒に走ってきました。西ベルリンの市民は大喜びしていましたよ。もちろん私に対してではなく、アメリカ軍に対してでしたけれども。ジョンソン副大統領が西ベルリンを訪れたのもちょうどその時だったと思います。よく覚えているのは、(西ベルリンに入ってすぐの)ヴァンゼーで市民から花束をたくさんもらったことですね。当時は西ベルリンを出て行く人ばかりだったから、ベルリンナンバーの車がわざわざ戻って来て、しかもそれが外国人だったから、「よく帰って来てくれた!」と歓迎されたのです。
いろいろな経験をしたのは、東ドイツと西ドイツ、表面上は喧嘩しているように見えても、下では手を握っているようでしたね。アメリカやソ連の援助を引き出すために、時々危ない場面も作り出すわけです。そういう政治の裏事情はよく感じられました。何か突拍子もない事件が起きても、「これは本当に喧嘩しているのか?どこまで本気なのか?」と思ってよく見ると、予め下の方で仕組まれていて、経済援助を引き出すためにわざとやったのではないかと思うことがよくありました。政治というのは作り事ですよ。壁を作って、(意図的に)緊張を生み出す。東独では車を運転する際に嫌がらせも受けましたね。検問所で丹念に検査をすれば、20〜30キロの渋滞はすぐにできます。車を追い越す時にウインカーを出したとか出さなかったとかで嫌がらせを受けましたし、ドレスデンにオペラの招待を受けて出かけた時は、ビザの関係でその日のうちに帰って来なければならなかったのですが、なにせ道路状態が悪いでしょう。10分ぐらい遅れただけなのに、もう大変。検問所で車の中のありとあらゆる場所を調べられました。
これだけ長く住んでいますから、やはりベルリンが好きなのでしょうね。フリッツ・ハーバー研究室の雰囲気も大好きで、昔からの伝統があり、やりたいことが自由にできる最高の環境でした。もう1 つ、ベルリンに長く住んでいる理由は、ベルリンほど原子爆弾に対して安全な場所は世界になかったからです。アメリカもソ連もここには決して原爆を落とせなかったでしょう。ソ連が西ベルリンに攻めて来るなんて言われていましたが、進撃にだって時間は掛かる。一番恐いのは原爆ですよ。ここにいれば二度と原爆には遭遇しないだろうと信じていましたから。
(つづく)



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