ウクライナ紀行(3) リヴィウ 光と影

(前回の続き)
リヴィウの町の郊外にあるLychakivsky共同墓地。42ヘクタールの敷地の中に、40万人以上の霊が眠っているというこの広大な共同墓地は、墓地という特殊な場所であるにも関わらず、リヴィウ最大の見どころのひとつである。

今回の旅行に持参したlonely planet社のウクライナ編のガイドブックには、「Lychakivsky共同墓地を訪れることなしに、リヴィウを去ることなかれ」というようなことが書いてあるのだが、実際に訪ねてみて、この言葉は間違いでないことがわかった。

地元の石工職人が腕によりを込めて彫った芸術作品のようなお墓から、非常に簡素なものまで、ここで見られるお墓は多彩を極めていて、歴史の重みに圧倒される思いがする。墓石に彫られている名前を見ると、ウクライナ人、ポーランド人、ドイツ人とこれもさまざま。この多様性は、一体どこに由来するのだろうか。

もしご興味があったら、世界地図を開いて、リヴィウがウクライナのどこにあるのか、確認していただきたい。東西に長いウクライナのほぼ一番西側、ポーランド、ハンガリー、スロヴァキアといった中欧諸国に限りなく近い位置にあることがわかる。これは重要なポイントである。

リヴィウの町の起源は13世紀に遡るが、中世以来、この町を長く支配していたのはポーランド人だった。1772年、ポーランドが分割されてしまうと、次にここを支配したのは、かのハプスブルク帝国。町の名前はレンベルク(Lemberg)とドイツ語風になり、公用語もドイツ語になる。19世紀の黄金期には、ウィーン、ブダペスト、プラハに次いで、ハプスブルク帝国の中で4番目に大きな町だったというから、当時の栄華のほどがしのばれる。

上の2つはドイツ人のお墓。

20世紀に入り、ハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー帝国)が終焉の時を迎えると、西ウクライナ共和国が独立を果たすものの(1918年)、わずか1年ほどで挫折。ウクライナ人とポーランド人の激しい戦闘の後、再びこの地はポーランドの支配下に入る。

第二次世界大戦後はソ連の一部に組み込まれるわけだが、意外なことに、この時までリヴィウが帝政ロシアの支配下に入ったことは一度もないのである。リヴィウの町を歩いてみるとよくわかるが、典型的なヨーロッパの町並みで、美しいユーゲント様式の建物なども多く見ることができる。つまり、ロシア的要素が薄く、西欧の影響が強い。それは昨年末のいわゆる「オレンジ革命」でも明らかになった。大統領決選投票の際、キエフとリヴィウを中心としたウクライナ西部の人々は、親ロシア派の与党ヤヌコヴィッチを支持した東部に対し、西欧型の民主化を推進しようとする野党のヴィクトル・ユーシェンコをこぞって支持したのである。

リヴィウの歴史を語る上で、忘れることができないのがユダヤ人である。この町のあるガリツィア地方を始めとして、ウクライナには中世から多くのユダヤ人が住んでいたのだが、リヴィウの住民を構成していたのも主にユダヤ人とポーランド人だった。町の郊外にはゲットーがあり、迫害の対象となっていた。19世紀末には、ウクライナ全土で約200万人ものユダヤ人が住んでいたという。迫害を避けるため、多くの人々はこの時期新大陸に逃れたが、彼らは現在のユダヤ系アメリカ人の核となっている(余談になるが、ジョージ・ガーシュインやレナード・バーンスタインは、19世紀末このようにアメリカに逃れたウクライナ系ユダヤ人の子孫である。またミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」も、やはりこの時期の南ウクライナのユダヤ人コミュニティーが舞台の話だ)。

ナチス・ドイツのユダヤ人狩りにおいて、リヴィウもまた例外ではなかった。第二次世界大戦中の1941年から1944年までの3年もの間に、リヴィウに住む約35万人ものユダヤ人がナチスによって強制収容所に送られ、殺されたという。この町には別の場所にユダヤ人墓地もあるのだが、今回は時間の関係で訪れることはできなかった。

この英雄的なモニュメントは前回触れたウクライナの国民的作家、イワン・フランコのお墓。入り口の近くということもあって、一際目に付く。

広大な墓地を歩き終えた私たちは、再び中心部に戻り、今度は町を一望できるという展望台に向かった。

ここからの眺めはすばらしかった。郊外には、社会主義時代に建てられたブロック状のアパート群が多く見られる。

明日は列車でいよいよ首都のキエフへと向かう。



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6 Responses

  1. こーどー
    こーどー at · Reply

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    どうも。昨日ようやくベルリンにもどっていました。個人的にはもう一週間ぐらい旅行していたかったけど、しゃーないですね。
    キエフのあとは南西ウクライナで数日をすごしたあと、またリヴィウに数日寄って、来た道をプシェミシルまでもどって、ルブリン経由でドイツにもどってきました。東ポーランドも実にいいところでしたよ。
    ウクライナにはまだいきたいところが色々ありますね。また出かけていくでしょう。黒海やカルパチア山脈沿いに旅するのも、魅力的でいい。実に思い出深い旅でした。

  2. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    おかえりなさい!思っていたより早かったね。まずは無事に帰って来て何よりです。今度会う時に、その後の旅の話をゆっくり聞かせてください。

  3. かおる
    かおる at · Reply

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    こんにちは。
    こちらのブログにはときどき寄らせていただいていたのですが、今日ちょっと久しぶりにお邪魔したら、ウクライナのことが、しかも、リヴィウのことが書いてあって興奮してしまいました。
    その上、泊まったホテルもおんなじときています。いいホテルですよね、ジョルジュ・ホテル。あそこのフロントのおばちゃんは、ウクライナでピカ1の親切な人だったんですが、今も現役でいるのでしょうか。。。

  4. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    かおるさん、こんにちは。このブログを読んでくださっている中に、Hotel Georgeに泊まったことのある方がいたとは、こちらこそ興奮気味です(笑)。リヴィウには2日半いましたが、アジア人観光客はほぼ皆無の町でした。Hotel Georgeは私もとても気に入りました。場所も最高ですよね。ホテルのフロントのおばさんは、英語を解してくれる親切な方だったので、同じ人である可能性は高いと思います。かおるさんのウクライナ旅行記も後でゆっくり拝見させていただきます。

  5. havigo
    havigo at · Reply

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    こんにちは。
    毎回「ウクライナ紀行」を楽しみにしています!
    今回の「リヴィウ」には惹かれたと言いますか…上手い表現が見付からないのですが、とにかく惹かれました。
    ボキャ貧な自分が恨めしい(苦笑)

  6. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    havigoさん、ご感想ありがとうございます。いろいろな文化が重層的に交わっている町というのが私は好きで、リヴィウもそこに惹かれましたね。次回は久々にサッカーのお話です(笑)。

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