山根寿代さんのこと(4) – ベルリンの恩師との再会 –

このシリーズの最初にご紹介した森鴎外との写真のほかに、ベルリンでの貴重な1枚を寿代さんから見せていただいた。これは1900年10月、山根正次(後列向って左より3人目)がパリ万博の出張の途中、ベルリンに住む萩中学時代のドイツ語教師ヒレルの家族を訪ねた際に、日本人の関係者と撮ったという写真だ。
1900年のベルリンというと、ヴァルター・ベンヤミンの「1900年頃のベルリンの幼年時代」を思い出してしまう。それはともかく、写真という技術がまだ一般的でなかった時代の1枚。画面は温かい雰囲気に満ちている。男性のほぼ全員が、いわゆるカイゼル髭をたくわえているのも微笑ましい。このヒレル家については、寿代さんがコピーを送ってくださった大阪学院大の郡司健教授の「R.Hillerファミリーと山根正次」(大阪日独協会会報)に詳しく紹介されている。面白いと思ったのが、ヒレルが萩滞在中に生まれた長女(写真左下)で、女中のお米さんに可愛がられたことから「オヨネ(Oyone)」と名付けられたそうなのだ。ちなみに次女の名前はフリダ(Frida)で、こちらは普通のドイツ名。
R.ヒレルは1903年にベルリンで亡くなっているが、子孫はいまどこにいるのだろうか。郡司教授は、現在ヒレルの子孫を探しておられるという。ベルリン在住だったとはいえ、Hillerという苗字は珍しい名前ではないため(ドイツの電話帳で検索すると、ドイツ全土で5000以上出てくる)、手がかりはいまだつかめていないとのこと。万が一、明治時代初頭に萩でドイツ語を教えていたReinhold Hillerのご子孫に関して何らかの情報をお持ちの方がいたら、私宛にご一報いただけると幸いです。
山根正次は明治24年(1891)に帰国すると、警察医長に任じられた。これは森鴎外が軍医総監になったのと好対照をなす。後には国会議員にもなり、大正14年(1925)に69歳で亡くなった。
寿代さんは、ご自身が7歳のときまで生きていた祖父の記憶をいくらか持っている。

私の覚えている祖父は晩年で、文字通り私のおじいちゃまであって、優しい子供好きだったと思います。勿論、どんな人生を過ごしたか知りませんでしたが、長男の父へ嫁いで参りました母は、とても懐の深い温かい祖父だったと私に話してくれた事を覚えて居ります。

山根正次の功績について、先の郡司氏はこう書かれている。

このように山根正次は、医家の家に生まれ、萩明倫館(独逸語学所)でHillerのもとにドイツ語を学んだことが、欧州留学・視察・医療行政にあたってもドイツ医学・公衆衛生学に範をとることとなった。彼はコレラやペストだけでなくハンセン病のような国民生活に重大な影響を及ぼす伝染病に対し医学・公衆衛生面から対応し、わが国の公衆衛生・健康福祉の発展に大きく貢献した。

福祉や医療への信頼が根本のところで揺らいでいるいま、明治の日本を支えた気骨ある人物たちを振り返ってみるのも悪くない。
(つづく)



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