山根寿代さんのこと(3) – 森鴎外からの手紙 –

山根正次がベルリン留学に向けて発ったのは、1887年10月8日のこと。森鴎外が留学していた時期と重なるが、そもそも2人の間にはどれだけの交流があったのだろうか。

森鴎外の小説は沢山読んで居りますが、直筆を目にしたのは祖父宛の手紙でした。元々鴎外も祖父も医者ですので、帰国後も色々と交流があったと思って居ります。

いつか寿代さんが横須賀を訪れたとき、鞄から何気なく取り出したのが、なんと森鴎外が山根正次に宛てた直筆の手紙だった。実家にあった鴎外の手紙はすでに何通か鴎外記念館に寄贈したが、「生きているうちは自分で楽しみたい」と一通は手元に残してあるのだそうだ。もちろん私の母はびっくりして、写真を撮らせてもらった。和紙の巻紙に書かれた鮮やかな筆致は、なんと美しいことか。
一体どんなすごいことが書かれているのかと私が興味を示したら、寿代さんが内容を現代風に訳してくださった。

来る七日の紅葉館のお知らせを有難うございました。然し当日生憎差し支えで欠席いたしますので、残念ながらお断りまで。草々 四日 森 山根君侍史

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現代ならば携帯メール1本で簡単に済みそうな内容である。
それを明治の文豪は、巻物のような和紙の上に毛筆で書いて、切手を貼って郵送していたのだ。ちなみに、封筒の差出名は「森林太郎」となっている。
コミュニケーションの発達に伴ってどんどん便利になったけれど、われわれはそれによって大事な何かを失ったのではないだろうか?この美しい筆致の手紙を眺めていると、そんな思いも頭を過ぎる。
私が興味を示したせいか、寿代さんは私宛の手紙の中に、この鴎外の手紙のコピーを同封してくださった。しかも、オリジナルの状態そのままに折りたたんでくださって。少し大袈裟かもしれないが、山根正次、寿代さん経由で、ある日突然私のもとに森鴎外から手紙が届いたような、そんな気分を味わった。
ちなみに、長州人の山根正次は生前、吉田松陰、高杉晋作など幕末維新期に活躍した志士たちの手紙を熱心に収集していたことでも知られ、2006年に萩博物館で「幕末志士たちの手紙展 ~山根正次コレクション~」という展覧会が開かれている。こういう几帳面な人だったからこそ、いくら鴎外のものとはいえ、ちょっとした内容の手紙まで残してくれたのかもしれない。
(つづく)

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8 Responses

  1. noriko-happylog
    noriko-happylog at · Reply

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    すごい!鴎外直筆の手紙ですか。ほんとに、今の時代ではメールひとつで終わらせてしまう内容でも、その当時はもちろん「手紙」なんですよね。今もきれいな状態で残っているというのも素晴らしいですね。それと、鴎外が「森林太郎」と書いたのもなんだか嬉しいです。津和野にあるお墓も名前はやはり「森林太郎」ですものね。

    ↓そうなんです、姉妹都市なんですよ。東西ドイツ統一後、ベルリンの鴎外記念館の存続が危ぶまれた際、津和野町が募金活動をして閉館を免れたようです。姉妹都市になって13年ですが、毎年津和野とベルリンの中学生が交流をしています。ずっと続いて行って欲しいですね。

  2. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    >noriko-happylogさん
    森林太郎の故郷津和野は、萩ともども一度ゆっくり訪ねたい場所です。お墓もそちらにあるんですね。

    >東西ドイツ統一後、ベルリンの鴎外記念館の存続が危ぶまれた際、
    >津和野町が募金活動をして閉館を免れたようです。
    こういう話はどこかで耳にしていたかもしれませんが、なるほどそうだったんですか。記念館のある通りはいまでこそ瀟洒な界隈ですが、東独の時代は荒れ果てていたのは想像できます。毎年交流が行われているのも素晴らしいですね。姉妹都市といっても、名前だけの場合だってありますから。

  3. Yozakura
    Yozakura at · Reply

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    鴎外直筆の書簡、拝見

     郵便切手に鮮明な消印が押捺されている第一級の歴史的資料ですね。拡大画像でも日付は読み取り不能ですが、多分100年ほど昔の書簡でしょう。写真で拝見する限りでは、封筒・書簡共に品質の劣化を視認できませんから、昔の職人が手漉きで作った「本物の和紙」なのでしょう。
     こうして鴎外の真筆をデジカメ写真の画像にて、それも、予期せぬ場所で確認出来るとは、結構な時代になったものです。掲示、有難う御座います。
     書簡の本文は、既に解説されていますが、封筒の宛名上書きは、達筆のままとなっています。実に余計なお世話ながら、解読してみました。( )書きの部分は、必要に応じて補足したものです。

    (東京市)麹町区下二番町三十(番地)
      山根正次 君
             侍史

     安物の作文ソフトなので、区と三十の「旧字」へ、夫々変換できないみたいです。申し訳ないです。
     また機会があれば、貴重な資料を御紹介下さい。お元気で。

  4. Yozakura
    Yozakura at · Reply

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    訂正です。
     一字、書き洩らしていました。「三十」ではなく、「三十四」でした。

    ×:三十(番地)
    ◎:三十四(番地)

     失礼しました。

  5. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    >Yozakuraさん
    ご丁寧に封筒の住所まで解読してくださり、どうもありがとうございます。明治時代は麹町がひとつの区だったのですね。おっしゃる通り、損傷がほぼ皆無な歴史的価値の高い手紙だと思われます。丁寧に作られた和紙はこんなにも美しく、また丈夫なのですね。

  6. Yozakura
    Yozakura at · Reply

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    Masatoさま:返信、拝見

    > 明治時代は麹町がひとつの区だったのですね。

     以下のサイトを検索されますと、明治時代の東京市街・全区域を網羅した行政上の居住地表示が閲覧可能です。ご関心あれば、以下のTagにて、検索なさってみて下さい。

    [明治時代、住所録、麹町区、下二番町]

     当時の下二番町は、役人や政治家が結構住んでいた模様です。時期が符合するか否かは不明ですが、山根家の隣には、著名な政治家も居住していた模様です。お元気で。

  7. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    >Yozakuraさん
    ありがとうございます。「明治時代の住所録」、興味深いです。皇居周辺を麹町区と呼んでいたのですね。下二番町ではありませんが、与謝野晶子や東郷平八郎も近くに住んでようで、一等地だったことは確かなようです。

  8. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    >Yozakuraさん
    ありがとうございます。「明治時代の住所録」、興味深いです。皇居周辺を麹町区と呼んでいたのですね。下二番町ではありませんが、与謝野晶子や東郷平八郎も近くに住んでようで、一等地だったことは確かなようです。

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