Bahnhof Berlin Friedrichstraße(1984年5月8日)
「フリードリヒ通り駅の100年」の後編は1980年代に入る。
この時代になると、旅行や留学生活、仕事の出張などでフリードリヒ通り駅を利用したという方もいらっしゃるのではないだろうか。
当時この駅がいかに複雑な内部構造になっていたかは、私の手元にある”Grenz-und Geisterbahnhöfe”というパノラマ地図(www.panorama-berlin.de)を見ると何となくわかる。西ベルリンから東ベルリンに「入国」する場合(赤の矢印)、そして「涙の宮殿」を通って西側に戻る場合(青の矢印)、いずれも複雑に込み入った経路を通らなければならなかった。特に地下鉄(右下)から東側に入る場合、地上の構内に出るまでどれだけ歩かなければならなかったのだろう。
1985年6月18日。Sバーンのホームから西側方面を望む。
1989年のある日。あまりに古めかしいSバーンの表示板は、字体からいっても戦前のものではないだろうか。
壁崩壊4ヶ月前の1989年7月。東側のコンコースらしいのだが、今となってはその名残はどこにも見られない。
関連記事(壁崩壊前日の東ベルリン):
壁崩壊、そして – メヒティルトさんに聞く(8) – (2007-03-19)
東西統一を控えた1990年4月17日の様子。
大改装工事真っ最中の1996年3月。私が初めてベルリンの地を踏んだのは1998年3月だが、その時も工事は続いており、大きく迂回してフリードリヒ通り駅の中に入ったのをよく覚えている。
ドイツ鉄道の長期ストにより、人気がまばらなホーム(2007年11月16日)。
フリードリヒ通り駅の構内はすっかりきれいになって、迷路のように複雑だった内部はもはや想像するのさえ難しい。最近、駅の北側には奇抜なビルが建ちそびえ、過去の遺物となった「涙の宮殿」を見下ろしている。
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1980年8月にこの駅の薄暗い地下に郵便局があって行列して東ドイツの切手を買いました。
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マサトさんに大変におだてられましたで(苦笑)少しまとまって書いておきましょうか。このフリードリヒ通り駅の検問所にも、チェックポイント・チャーリーの検問所にも随分思い出があります。書いていくと際限がありませんので、以下思いつくままに書くということになりますが。
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ウーン、まずですね、1枚目の写真ですが、かつて「壁のあった時代(上)- メヒティルトさんに聞く(5)」で私がコメント(2007年3月14日)した「フリードリヒ通り駅の出口の橋桁のところの本屋さん」というのが、明瞭に写っていますね! 懐かしいです.....。 ここの本屋さんの「ご主人」には本当にお世話になりました。私にとって東ベルリンの本屋といったらここの本屋さんと、あとは例のカール・マルクス書店でしたね。それから、この駅の構造ですが、今でこそこのような見取り図で全体を把握できますが、当時はそのような把握ができなかったですね。だだし、迷うということがなかったのは不思議でした。あと印象的だったのは、東西ベルリン間のインターショップ(免税店)で(名前でリンクさせたページに写真があります)。
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このフリードリヒ通り駅内でのインターショップでの思い出についてはすでに別の場所で書きました(ベルリン幻影12 ― 名前でリンク)。 なんとも陰気くさい店でしたけれどね。まあ利用価値はありました。それからこの駅の検問所の初体験の時のことも書いておきましょうか。75年に生まれて初めてこの駅から東ベルリンに行きましたが、その最初の時の前日ですが、私は翌日の越境に備えて場所を確認するために検問所の下見に行きました。Uバーンを降りて検問所に向かい、人々がDDR入国のために検問所に行列を作っているところまで通路を歩きました。検問所の場所を確認できた私は、方向を変えて今来た通路を戻ろうとしました。その瞬間私の背中の方向から、何か板を叩く猛烈な音がしたと同時に「こっちに戻れ!!」という怒鳴り声が発せられました。
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「フン、明日か...。」と言ったあと、私にパスポートを返し、無言のままあごで私に立ち去るように命じました。私の胸は激しく鼓動したまま、西ベルリンにもどるべく、Uバーンのホームへと引き返したわけでした。検問所の下見だけだったとはいえ、初体験だった私はDDRという国への恐怖感を存分に味わわされたわけでした。そうとはいっても、やっぱり翌日にはこの検問所から東ベルリンに行ったわけで、好奇心のほうが恐怖感に打ち勝ったというべきでしょう(笑)。そうこうしているうちに私もDDRの警官その他からの「脅し」には慣れっこになり、「どこ吹く風」というように腹が据わってきましたが(笑)。DDR時代のフリードリヒ通り駅を考えるには、検問所の存在を介してSバーンとUバーンの駅として両方一体で考えるべきでしょう。それがアレックス駅や動物園駅の場合とは違うように思いますね。
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壁崩壊後の90年春で、まだDDRは存在していた時期でしたが、私は連れとアレックスの駅のホームでSバーンを待っていました。ホームに入ってきた車両の行き先を告げるプレートには「ボツダム中央駅」と書かれていました。私はそれを見て心底感激してしまいました。今となっては若い方々には理解していただけないとは思いますが、アレックスの駅からポツダム行きの電車に乗るなどというのは壁が存在していた時代には想像もできない話だったからです。二人でその電車に乗り込みます。やがて電車はフリードリヒ通り駅に着きました。そこで降りようとした私に連れは私の袖をつかまえて、「なぜ降りるの?」と聞いてきました。「だって....」と言い出して私はやっと気がつきました。この駅で一度降車して検問所に行く必要などもうないわけでした。「我が愛しの」フリードリヒ通り駅はこうして歴史の向こう側に去っていったわけでした(笑)。
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現在のフリードリヒ通り駅、私にとっては過去の思い出はたくさんあるものの、なにかあわただしい駅という印象以上のものは感じません。フリードリヒ通り駅の通路を通っても「ここにはかつてXXがあった。」というような感慨は不思議と湧きません(「涙の宮殿」は別ですが)。現在のフリードリヒ通りが、その許容量以上に昔日のクーダムの担っていた「繁華街」としての機能のいくつもを背負わされているのが重荷であり、それがなんとなくこのフリードリヒ通り駅の雰囲気に影響を与えているのかもしれません。「我が愛しのフリードリヒ通り駅」、それは苦しみや痛み、残酷さの記憶を一杯に含みながら、私の記憶から遠ざかっていくのを感じます。かつての時代状況、政治状況に戻りたくは決してありませんが、あの時代の個人的にもつらかった記憶のどこかに甘美なものがなかったかといえばそうでもないようにも思います。毎度長々とお邪魔をし大変失礼いたしました。
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1986年に行ったときはSバーンには乗ってなくて、1990年7月に行ったときに初めてAlexからフリードリッヒシュトラーセ駅(以下F駅)まで乗りました。
で、大権威の方が書かれた内容にイチャモンをつけるようで申し訳ありませんが、そのときはF駅が終点で、まだ西側までそのまま行けるようになっていなかったかと思います。
路線図を年代順に並べたサイトがありますが(www.berliner-verkehr.de/snetze.htm)、1990年3月の路線図ではつながっていなくてS3の起点がF駅で、1990年11月の路線図で、久しぶりにつながったように見えるのですが、いかがでしょうか?
駅自体の印象は、まさに1985年、89年、90年の写真どおりで、全体にすすけた、薄暗い感じでした。当時のガイドブック(例えば「地球の歩き方」など)には、「Sバーンはスリとか多く、東洋人は標的にされて危険なので極力乗らないように」とか「乗るときは気をつけて」というようなことが書いてあった記憶があります。もちろん、ガイドブックが「西ドイツ」と「東欧」で別だった時代ですね。
ちなみに、引用されているパノラマ地図、おととし行ったときに買いました。
お目汚し失礼いたしました。
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ウーン、そうですねえ、この時のSバーンの行き先の記憶は90年8月末から9月上旬に滞在した際のことだったかもしれませんね。ちょっとはっきりしません。少し記憶を辿ってみましょう。
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Kamanoさん
コメントありがとうございます。
フリードリヒ通り駅の郵便局は日曜日も営業しているので、たまに行きますが、昔はさぞや薄暗い雰囲気だったのでしょうね。
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la_vera_storiaさん
私のさりげないリクエスト(?)に乗っていただき、感謝申し上げます。la_vera_storiaさんの東ベルリン回想録は、セピア色に彩られつつも、読んでいてハラハラする時がありますが、今回はまさにそうですね。好奇心と恐怖感の拮抗。あの時あの場にいたら、おそらく自分も似たようなことをしでかしただろうと思わせるものがどこかにあって、想像力を膨らませながら読ませていただきました。
>フリードリヒ通り駅の通路を通っても「ここにはかつてXXがあった。」
>というような感慨は不思議と湧きません
あの時代を直接知らない自分でも、それは何となく感じることです。それに比べて、閉鎖される間際の「涙の宮殿」の中に入った時の感慨は今でもよく覚えています。今度分断時代のSバーンの話を載せますので、またお読みいただけると幸いです。
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nem_ranさん
ご指摘ありがとうございます。
いずれにしろ言えるのは、F駅からポツダムまでかつてはそれほど遠かったということでしょうか・・・。
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私もこの駅のことを書き出すと、きりがありませんが…。91年の正月に、壁崩壊後はじめてベルリンへ行きました。プラハからの列車がリヒテンベルクに着き、Zoo駅へ向かって乗ったSバーンがたしかポツダム行きでした。私もこの行き先表示で東西がつながったことを実感しました。
ところが私の切符は、ウィーン発ベルリン"Stadtbahn"行きとなっていました。これがどこまで有効か、旧西のSバーンは西ベルリン交通局の運営でしたから、それが統合されていなければ、この切符は旧東の地域どまりのはず。そこで満員の車内で、「どなたかわかる人はいませんか」と乗客たちに尋ねてみましたが、誰もわかりません。で、以前と同様フリードリヒシュトラーセ駅に降り立ち、あらためて市内交通の切符を買いました。
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(前の投稿から続く)
私が降りたところで後から来た老夫婦が、「この電車は旧東独国鉄のものだから、大丈夫ですよ、このまま乗って行きなさい」とアドバイスしてくれましたが、これも当てにならなかったので、やはり下車。
そこで荷物を抱えたまま、コンコースに降りてみました。検問所跡がどうなっているか、見たかったのです。国境検問の施設が撤去されたその場所は、ただの呆気ないほど短い通路になっていました。わずかに壁に残っていたネジを外した痕跡が、そこに監視用カメラがあったことを思い出させていました。
次に来たとき(たしか93年暮れ)にはもうここは全面改装され、検問所がどこにあったかすら分からなくなっていました。
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焼きそうせいじさん
私がどんなに体験したくてももうできない種の体験談を綴ってくださり、ありがとうございます。壁崩壊後に初めてベルリンを訪れた際のとまどい、不思議な感覚がよく表現されているように思いました。
壁があった時代のベルリンも惹かれますが、崩壊から92,3年頃までの過度期がどうであったかも興味があります。
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焼きそうせいじさん、私の理解では、その切符は仮に分断時代でも西側の駅まで「有効」のはずです。ただし「有効」という意味は観念的・理論的な想定でのみの話です。事実上は東西間の検問(所)があるために「市内域途中下車」の扱いになり、その「東ベルリン最後の駅」で有効性を失う….実際はそういうことのはずです。 西のSバーンは実際の業務こそ西の人間がやっていましたが、運営権、支配権(よって収益の帰属)は永く(確か80年代前半頃まで)東にあったはずです。(ということは、彼らの給与の直接支払者が誰であるかは別として、少なくともその原資は東からであったことを意味します)。 西ベルリンの人々は西のSバーン利用ボイコットのキャンペーンをした時期もありましたよね。東側は、こういうことで西ベルリンの駅も理屈上は「市内」とみなしていましたから、切符は西まで「有効」、分断時代に関するならば一応こういう理屈のはずです。統一直後も結論自体は同じと思われますが。
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交通・運輸のことを何も知らぬ素人としては、la_vera_storiaさんのご説明に肯くよりありません。西ベルリン市内の長距離鉄道線は統一時まで東の国鉄の所有ならびに管轄、Sバーンは確か1984年以降西の交通局に譲渡されたと記憶しています。
それより、検問所の人の流れを外れて警備兵に咎められたお話、私も一度やりました。東独に宿泊つきでビザを申請して入国する際に入国カードのようなものに記入しないといけないのですが、私は東ベルリンから西へ戻るときに次回の東独訪問のためにこのカードをピックアップしようと、東へ入る人の流れに紛れ込もうとして、呼び止められました。まあ大したことにはなりませんでしたが。
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フリードリヒ・シュトラーセ駅で忘れられない情景は、入国審査と税関検査を終え、扉を開けて東ベルリンへ入ったときのことです。何人もの人がそこに立っていて、私のほうに視線を集めてきますが、またすぐに逸れていきます。ある人は手に花を持っていました。
そこはまだ駅構内ですが、東独の人たちが入れる空間でした。この人たちは西から親戚や知人が東を訪問するのを迎えていたのでした。おそらく初対面の人は事前に目印を決めていて、それで花を持っていたのでしょう。「今度こそそうかな、あ、違った」…集まってはすぐに逸れていった視線はそういう意味だったようです。
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お2人とも興味深いお話をありがとうございます。
近日中に分断時代のSバーンの音にまつわる話をアップしますので、またご覧いただけると幸いです。