ベルリン・ドイツオペラの「イドメネオ」論争

Deutsche Oper Berlin (Foto: dpa)
モーツァルトのオペラに関する話題が新聞の文芸欄の一面を飾ることがあっても、政治や経済までを含めたトップ面に、しかも3日連続で(Berlienr Zeitung紙)掲載されるということは、間違いなく前代未聞の出来事だろう。
先週からドイツでは、ベルリン・ドイツオペラでのモーツァルトのオペラ「イドメネオ」の上演を巡る議論が白熱している。
事の経緯を説明するとこういうことである。
今年の6月、連邦警察のホットラインに一件の電話が入った。ベルリン・ドイツオペラの「イドメネオ」を観たという匿名の女性からで、「あの演出による作品を再上演したらイスラム側から抗議が起こるのではないか」という内容だった。この「イドメネオ」の大まかなあらすじについては前回のLexikonを読んでいただくとして、2003年3月にプレミエとなったハンス・ノイエンフェルス演出による「イドメネオ」では最後にスキャンダラスなシーンがある。神の否定の行為として、ポセイドン、キリスト、ブッダ、ムハンマドの首がさらされるというシーンだ。私はこの舞台を観ていないが、プレミエ当時話題になったのは覚えている。「ひどい演出だった」と感想をもらす人も周りにいた。
警察はその一件をベルリン市の内務省に報告し、州の刑事局によって上演に際しての危険度をチェックする分析が入ることになった。この「危険分析」というのは、今年初頭のムハンマド風刺画論争の後に導入されたものだそうだ。
8月、ベルリンの内務大臣エアハルト・ケルティングは、「その上演が何らかの危険をもたらす可能性がありうる」とベルリン・ドイツオペラの女性支配人(Intendant)、キルステン・ハルムスに伝えた。
「危険の可能性」といっても、この演出の上演に関してこれまで具体的なテロの危険があったわけでも、イスラム組織から何らかの警告があったわけでもなかった。ただ、例のムハンマド風刺画論争や、最近ではレーゲンスブルクでの教皇の発言がイスラム教徒の怒りを買うなど、「文明の衝突」を巡る緊張感が高まってきているのは確かだろう。オペラ座支配人のハルムスは「この警告を無視して上演を敢行した結果、もし何か起こった場合には責任を免れない」という理由から、11月に予定されていたイドメネオの再演の中止を決定したのだった。
先週の月曜日にそのことが報道されると、たちまちドイツ中で論議の嵐が吹き荒れた。主要な政治家の発言のほとんどはハルムスの決定に対する非難で、彼女の決定は「自己検閲」であり、芸術の自由を危険にさらすことになる、という論調だった。

自らの意思によって制限することは、われわれの価値に対抗するものに、誤った確認を与えてしまう。
(ベルリン市長Klaus Wowereit)

自由社会においては、ある作品の演出を強く批判するということはありえる。だが、恐れをなして上演を取りやめるということがあってはならない。とうとう芸術の自由が制限されるところまできてしまったか。今度は何が起こるというのだろう。
(連邦議会副議長Wolfgang Thierse)

ドイツの劇場で演じられることの内容をイスラム側が決めるということがあってはならない。
(ブランデンブルク州内務大臣Jörg Schönbohm)

レーゲンスブルクの教皇発言を巡る騒ぎからまだ日が浅いだけに、ドイツの政治家が幾分ナーバスになっている様子が発言の端々から伺われる。
ベルリンの他の劇場のトップが概ね公には口を閉ざす一方で、例えば、物議をかもす演出で知られるクリストフ・シュリンゲンジーフはこう語った。

全くおかしな話だ。オペラハウスは例えばモペット(小型オートバイ)に乗るフィガロのようにニセの現実の飾りを重要だと考えている。それなのに、ある作品がうっかり(本当の)現実に触れると、今度は上演が取りやめになってしまう。ノイエンフェルスの演出ではムハンマドだけでなく、ブッダやキリストの首もさらされるのだから、平等ではないか。

この流れに乗って、とうとう首相のアンゲラ・メルケルまでもが「これは間違った決定だ」と表明する事態にまで発展した。
ベルリンでは折しも、ドイツで初のドイツ・イスラム会議が開催中だった。この会議の責任者であり連邦内務大臣のヴォルフガング・ショイブレは、「ドイツオペラのイドメネオは再び上演されるべきだ。再上演が決まったら、私はこの会議に参加したイスラムの人々と一緒に観に行く用意がある」と発言した。
こういう流れの中で、ドイツオペラ支配人のハルムスも、この作品の再上演の可能性を今のところ否定していない。ただ、プレミエを指揮したローター・ツァグロセクは、「こういう状況下で好んで指揮台に立ちたくはない」。当のノイエンフェルスは、今回の上演中止に対して怒りの反応を示したが、一方で「2003年の時と違って、この演出の上演が取り止めになることもありうる」ことを認めている。
当初はドイツオペラのハルムスに対する非難ばかりが目立ったが、ベルリン市の内務大臣エアハルト・ケルティングは、ハルムスの上演中止の決定の前に十分な話し合いがなされなかったと、自分の過ちを認めた。根拠がないのにも関わらず、上演の中止をハルムスに勧めたケルティングにも批判が起きている。
ちなみに国営放送ARDによるネット調査では、公演中止の決定が正しかったかどうかについて
「正しかった」は11%
「間違っていた」は87%
という結果が出ている。
大分長くなってしまったので、この話はここで一旦打ち切ることにしたいが、今日11時からはベルリン・ドイツオペラでこの問題についての公開討論会が開かれるそうだ。Phoenixというテレビ局が生中継をするというから世論の関心のほどが伺われる。
Dienstag, 03.10.2006, 11:00 Uhr
Die IDOMENEO-Debatte

Zur aktuellen Debatte im Zuge der Spielplanänderung IDOMENEO an der Deutschen Oper Berlin diskutieren am
> Bischof Dr. Wolfgang Huber [Ratsvorsitzender der EKD]
> Dr. Ehrhart Körting [Senator für Inneres]
> Dr. Thomas Flierl [Senator für Wissenschaft, Forschung und Kultur]
> John Kornblum [Ehemaliger Botschafter der USA in Deutschland]
> Günter Piening [Beauftragter des Berliner Senats für Integration und Migration]
> Kirsten Harms [Intendantin der Deutschen Oper Berlin]
> Ulrich Khuon [Intendant des Thalia Theaters Hamburg]
> Riem Spielhaus [Islamwissenschaftlerin an der Humboldt-Universität zu Berlin]



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7 Responses

  1. la_vera_storia
    la_vera_storia at · Reply

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    中央駅さん、私はこの問題に関してはいささか意地の悪い見方をしています。 まず、「表現の自由は最大限に尊重されねばならない」という大前提はあくまで踏まえます。 そして、こういう問題が起きたときに、よくある終結・決着パターンには以下のようなものが想定できます。すなわち、大上段に振りかぶった西欧知識人の「表現の自由」の主張の大合唱のもと再演が実現します。ところが、いざ蓋を開けてみると、「創造性や新鮮味に欠けた陳腐でお粗末極まりない演出内容」と、その分野の批評家から今頃になって次々と手厳しい批判。 結果として上演は打ち切りとなります.....。 と、まあ、これで「めでたし、めでたし」。 今回もこのパターンをたどるかな....。

  2. 焼きそうせいじ
    焼きそうせいじ at · Reply

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    この騒動のことを、こちらではじめて知りました。奇妙なのは、肝心のイスラム教徒がこの上演を止めろとか言っているようではないらしいという点でしょうか。
    M新聞のN記者でぴんとくる世代は私やla_vera_storiaさんあたりですが、この顛末は目下某月刊誌に小説仕立てで連載中です。そこでは作者はこの記者に好意的ですけれど。

  3. にとうへい
    にとうへい at · Reply

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    文明の衝突。日本ではテレビや本のなかの出来事ですが、
    欧州ではリアルタイムで起きているのですね。
    直面してみなければ分からない恐怖というものはあるのでしょうし、ハルンス氏が先手を打って公演を中止した気持ちというのも、人として理解できるような気はします。
    芸術を擁護する立場としてふさわしいのか否かは、また別の問題ですが…。いずれにせよ結果を批判するのは簡単ですからね。

  4. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    >la_vera_storiaさん
    >焼きそうせいじさん

    ご意見お寄せいただきありがとうございます(「中欧」サイトでも早速取り上げていただき感謝です!)

    日本で音楽制作の現場で働いている方が言っておられたのですが、総裁のハルンスはノイエンフェルス演出の「イドメネオ」を本当に評価していたのだろうか、ということです。もしその演出の価値を認めていれば、多少スキャンダラスなシーンがあったとしても上演を決行したと思うのですが、そうはならなかったのは、このいわゆる「トンデモ演出」のために余計なリスクを払う必要はない、という考えが裏にはあったのかもしれません。

    今日の報道によると、この「イドメネオ」は12月に再演される方向なのだそうです。またレポートできればと思っています。

  5. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    >にとうへいさん
    今回の事件は最初にイスラム側から批判があったわけではないので、直接「文明の衝突」とは言えないかもしれませんが、まさか西洋芸術文化の華といわれる「オペラ」にまでその影響が及んできたことにまずびっくりしました。オペラといっても、最近はこのノイエンフェルスやシュリンゲンジーフのように時代との接点を求めるあまり、過激に走るケースも増えており、劇場の方向性を決める運営側の立場の難しさも感じました。

  6. pfaelzerwein
    pfaelzerwein at · Reply

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    「リスクを払う必要はない、という考えが裏にはあった」ならば弁明の方法がありますよね。と言うか、財政の面もありますし、生誕年に適当な出し物と考えていたのでしょう。そのレヴェルの劇場・支配人ということでしょう。
    la_vera_storiaの言う見方はあたっているのではないでしょうか?討論会のTVは観ませんでしたが内容を知りましたので、改めてTBを貼ります。

  7. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    >pfaelzerweinさん
    コメントありがとうございます。とても興味深い内容でしたので、ぜひTBしていただけるとうれしいです。うまくいきませんでしたか?

    この事件については前回書ききれなかったこともあるので、それを含めてまた別の機会に書いてみたいと思っています。

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