テレージエンシュタット訪問記(2)

「労働は人を自由にする」と書かれた門をくぐり抜けると、中庭があり、いくつもの監房や独房の建物が並んでいた。
前回書いたように、もともとこの小要塞は18世紀末に作られた。当初ここに投獄されたのは軍人の他、中欧や南東ヨーロッパの民俗解放戦線に携わった人々だったという。入り口でもらったパンフレットによると、ナチス・ドイツの占領後、1940年にこの小要塞にゲシュタポのプラハ本部の刑務所が造られ、同年6月14日に最初の囚人が送られてきた。チェコ人が多かったそうだが、それ以外にもソ連、ポーランド、ドイツ、旧ユーゴ、もちろんユダヤ人も。大多数は、ナチスに対する抵抗運動のかどで逮捕された人々だった。
テレジンの小要塞は、パンフレットに番号と経路が記されているので、それに従って見学するのが一番よい。ところが、この17、18と番号が書かれた場所まで来て、一瞬立ちすくんでしまった。18は「死体保安所。ここに拷問死した囚人の遺体が置かれた」そうだ(いやだなあ・・・)。隣の17は地下道。すぐにでも引き返したくなる場所だったが、経路図を見ると、この地下道をくぐり抜けないと次の19に行けないようになっている。しかもこれがたいそうな距離で、ざっと400メートルはありそう。「まさか囚人の遺体を運ぶのに使われた地下道じゃないよな」と思いつつパンフレットを見ると、「元の要塞の一部。戦時中は利用されなかった」と書かれていた。とはいえ、細長く暗い(もちろん明かりはあるものの)地下道を延々と歩いて行くのはかなり気が滅入った。1人で来ていたら、もっと恐かったかもしれない。
ようやく地下道をくぐり抜けたと思ったら、そこは処刑場跡・・・。「小要塞で死刑執行が始まったのは1943年。ここで、約250人の囚人が銃殺された。最大の処刑が行われたのは1945年5月2日で52人が処刑された。その大部分は、レジスタンス組織のメンバー」。
この門をくぐると、再び小要塞の中に戻ることになる。これは通称「死の門」。囚人にとっては、処刑場へと導く門だったのだ。
あまりゆっくり見て回る時間がない中、東側の突端部に行ってみる。中庭に監房が並ぶその奥は、やはり見せしめのための処刑場だった・・・。「1945年3月、38号監房から脱走を図り、失敗した3人の囚人のうち1人が、他に無作為に選び出された2人の男性と1人の女性と共に、中庭の先端部で見せしめのため処刑された。逃亡を試みた残る2人も逮捕され、第一中庭の独房近くで石たたきの刑で処刑された」。
劣悪な居住条件の中、戦争末期にはチフスが広がり、多くの人が亡くなったという。ここが開放されたのは、1945年5月5日に看守が逃げ出した後、ソ連軍がやって来た5月8日のことだった。
どこを歩いても、いまでも死の気配がすぐそばに感じられるテレジンの小要塞を一通り見終え、入り口に戻ってきた。決して長い時間ではなかったが、疲労感を感じる。ここは要塞全体が完全に隔離された刑務所だった。が、テレジンはこれでおしまいではなかった。
(つづく)

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4 Responses

  1. ウメ
    ウメ at · Reply

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    テレージエンシュタットといえば子供達が多く居たところのイメージが強いのですが、普通に収容所としても使われていたんですね。

  2. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    ウメさん
    そうなんです。子供たちが多く収容されていた場所は、これからご紹介します。

  3. ウメ
    ウメ at · Reply

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    うわー!余計なことを言いました。すみません。日本のTVでも見たことがあって、生存者か近所の住民かのインタビューとともに放映されていました。

  4. berlinHbf
    berlinHbf at · Reply

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    ウメさん、いえいえそんなことないですよ。私も実際に足を運んでみるまでは、どういう街なのか想像できませんでした。テレジンをテーマにしたテレビ番組もあったのですね。

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