外林秀人さん(2010年8月)
ヒロシマ原爆の日に、昨年翻訳したドイツの新聞記事をアップしたいと思います。これまで何度かご紹介してきたベルリン在住の科学者にしてヒロシマの被爆者、外林秀人さん。原爆投下から65年経った昨年8月、ターゲスシュピーゲル紙が紙面1面を使って外林さんを取り上げた記事の翻訳です。外林先生より直接依頼をいただき、通訳者の友人宇野将史さんに手伝ってもらいながら訳しました。1つのテーマを扱い、これほど重厚かつ長大な記事は日本の新聞ではそうそう読めないでしょう。難解な箇所も結構ありましたが、ドイツの新聞文化の厚みを感じながら訳しました。フクシマの原発事故が起こる半年前に書かれた記事ということも考慮して、ぜひ皆さんに読んでいただきたいと思います。
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ひとりの犠牲者、沈黙を破る
カーティア・ライマン
家族は彼に頼んだ。「黙っててくれよ、でないと一家の恥だ!」。それから60年もの間、彼は口をつぐんだ。しかし世界が何も学んでいないということに気付いた今、外林秀人はヒロシマの原爆投下について、口を開いた。
気温が30度、35度を超え、太陽が照っていると、平静を保てなくなる。外林にとって夏が問題なのではない。しかし暑さが記憶を呼び覚ますのだ。しのびよる熱気が肌に感じられると、汗ばみほてってくる。うすくて細いグレーの髪が生えた頭のてっぺんまで熱くなる。80歳になる体に暑さがじわりじわりと迫ってくる。暑さのせいで、彼がこれまでに整理してきたトラウマを克服しようとする考えは、かき乱されてしまうのだ。
外林は猛暑のその日、エアコンが効いている場所に座ることを望んだ。65年前に体験した8月6日のことを話すとき、彼は自分の記憶を冷静にコントロールしなければならない。彼はその時のことを、しっかり話せるように、きちんと並べてメモしていた。自分に起こったことを話す際、彼は自分の殻の中からあたかも抜け出さなければならないかのようだ。彼の中で何かがほころび、それを外に出そうと思うまで60年もの間、なぜ沈黙を保っていたのだろうか。
「あれから約150回の講演をしてきました」と外林は言った。講演の中で、彼はある日本のドキュメンタリー映画の一部分を見せた。そして、自分の日記を落ち着いた声で、ドイツ語で読み上げた。ベルリンに住んでほぼ50年になるが、決して流暢なドイツ語ではない。
ヒロシマの原爆投下を彼はどう生き延びたのか。
「1945年8月は暑い日々でした」と彼はクーラーの効いた涼しい中で話し始めた。第二次世界大戦がアジアにおいても終わりを迎えることになる夏。ドイツ降伏の後、日本もやがて降参するものだろうと思われていた。しかし結局は、アメリカの原子爆弾が日本を降伏へと追い込んだのだった。広島はそれまでアメリカの空爆による甚大な破壊を被ることのない、数少ない日本の都市のひとつだった。勤労奉仕の一環で、空襲の際、火の回りを遅らせるために、建物を壊して道路を拡張する作業が日中に行われていた。この都市は大部分が木造建築だったのである。
8月6日の早朝、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。が、その1時間後には解除された。そのため、当時エリート学校の生徒だった16歳の外林秀人は、8月6日も普段と同じように学校へ通った。教室は2階にあった。8時15分、化学の教師がベンゾールの分子の図を黒板に描いたその瞬間、閃光が上がった。「巨大な電球にスイッチが入ったような」明るさだったと外林は語る。轟音がとどろき、建物は倒壊。学校は爆心地よりわずか1.5キロほどの距離だった。
「日本語で、閃光はピカ、雷鳴はドンを意味します。ですから、広島の人は原爆の爆発をピカドンと呼ぶのです」。約14万人が即死、10万人もの人がそれから何年も病気に苛まれた。正確な数字は存在しない。
外林秀人はできることなら思い出したくない。長い間、彼は沈黙を続けた。それは1つに、日本の家族に苦労をかけたくなかったからだ。広島では、原爆の生存者は英雄ではなく、差別される者であり、人々は彼らからの伝染や奇形児を恐れている。外林はかつて弟からこのように頼まれたことがある。「被爆の話は自分の中に留めておいてほしい。そうでないと、僕の子供たちと結婚してくれる人がいなくなってしまう」。しかし、外林の目には、世界は破滅から何も学んでいないように写る。それゆえに彼は語らなければならないのである。
現在世界には2万3000の核弾頭が存在している。その威力はヒロシマの原爆の15万個分に相当する。バラク・オバマ米大統領は、2009年4月プラハでの演説で、それらを「冷戦のもっとも危険な遺産」と呼んだ。オバマは、テロリストによってこの「きたない爆弾」が製造される危険性と、核兵器なき世界である「グローバル・ゼロ」の必要性について言及した。「それは急務の問題です」と外林は語る。
原爆が落とされたのは、核分裂がエネルギー生産に使われる何年も前だった。世界は大量破壊兵器としての原子力と出会ったがゆえに、多くの人はそれを危険だと見なしている。にも関わらず、今日原子力はエネルギー需要の大部分を満たし、現在世界では439の原子力発電が稼働し、ドイツでは発電全体に対して核エネルギーが22%の割合を占めている。
意識を取り戻した時、外林は学校のがれきの下にいた。そこから抜け出し、友人の光明を助け出したが、彼は顔から耳が垂れ下がっていた。周りの全てが破壊され、燃え上がっているのを見た。「なぜ広島は攻撃を受けないのだろうかと、私たちはずっと不思議に思っていたんです」と外林は語る。川崎、東京、大阪、神戸といった日本中の大都市は爆撃を受けていた。ついにその時が来たのだと彼は思った。
原爆が広島中心部の上空約600メートルで爆発した時、爆心地の温度は、10億分の1秒の間に約6000万度にまで達した(これは太陽の地表の1万倍の熱さである)。地表では6000度以上の高熱が覆っていた。外林は講演の際、ある階段の写真を見せている。灰色の石の上に、黒い影がくっきりと浮き出ているが、これは爆発の際、そこに座っていた人の影だ。投下地点に留まっていたその犠牲者は、蒸発してしまったそうである。「それは完全には正しくありません」と外林は語る。「一種のレントゲン撮影です」。つまり、大量の放射線が一気に放射されたわけだ。「蒸発にはもっと時間がかかりますから」と彼は言う。
外林ならそれを科学的にも説明できるだろう。というのも、彼は物理化学の教授なのである。物理学者のリーゼ・マイトナーと化学者のオットー・ハーンが核分裂を発見したことで30年代後半に融合し、後の核兵器開発へとつながっていくこの分野こそが、外林の専門領域である。ひょっとしたら、外林は客観的な学問の知識があるために、自分の体験から距離を保てているのだろうか?彼は想像を絶するむごたらしさを、過度な感情を出さず自然科学的に説明することができる。
長崎に生まれた外林は、広島で育ち、京都大学で化学を専攻した。両親は彼が医者になることを望んでいた。「しかし、私は血を見ることができないのです」と語る外林は、広島の通りで血という血を見た後、それを気に留めなくなっていたことを、おかしいとさえ感じている。1957年、マックス・プランク協会のフリッツ・ハーバー研究所の2年間の奨学生としてベルリンにやって来た。学問のメッカであるダーレムは1つの夢だった。しかも、そのわずか20年足らず前、ハーンはベルリンで核分裂の実験を行った。全てはダーレムから始まったのだった。そのことが、あたかも彼をその場所に引き寄せたかのようだ。が、もちろんそうではない。あくまで学問的な興味でベルリンにやって来たのである。「ドイツといえば、メルセデス、バイエル、アスピリンでした」と外林は語る。
1965年にフリッツ・ハーバー研究所の助手として、再びベルリンへ。外林は、ベルリンの加速器Bessy Iで重合体やプラスチック層の研究、レントゲン放射を浴びた物質のテストに従事し、70年代前半に教授の資格を得た。科学者としては、人類が学問の成果について責任を負うということを、ただ望むしかない。外林秀人は、人間がいかに愚かになり得るかを知っているのだ。
日本は核エネルギーを気候変動の解決策として褒め称え、国は現在54の原子力発電所を稼働させ、さらに増やす計画もある。「それは、核エネルギーをもっぱら平和的に利用していると説明するトリックなのです」と外林は語る。では、一体その廃棄物はどこへ?日本はわからない。ドイツもわからない。
プルトニウムの半減期は約2万4000年にも及ぶ。その後ようやく、死の危険のある放射能の半分が崩壊する。外林の年齢の実に300倍もの長さである。
講演の際、外林はプロジェクタで壁に映し出される写真に背を向けて立つ。原爆投下を思い出させる博物館にも、足を運ぶことはない。「記憶が鮮明に蘇ってきて、あまりに感情的になってしまうのです」と語る。一瞬、彼はいつもの不安げなまなざしをこちらに向けて、微笑み、こう言った。「すると、夜眠れなくなってしまうのですよ」。
茶色の目には長くのびたまつ毛が重なり、年齢と暑さのためか、まぶたはやや重い。外林は「ヒロシマ広場をつくる会」と共に、1945年7月と8月のポツダム会談の期間中、ハリー・トルーマン米大統領が滞在したポツダムの邸宅の向かいに、記念碑を設立するための活動に従事していた。トルーマン大統領は、1945年7月25日にここで原爆の投下命令を下したのである。ちょうど65年後の同じ日、この会は追悼の場所の除幕式を行った。バーベルスベルクのこの広場では、いま広島と長崎からの2つのオリジナルの被爆石を見ることができる。「広島の魂が感じられます」と外林は語る。
2007年、外林はベルリン日独センターの大勢の聴衆の前で初めて語った。11月1日は彼の誕生日だった。また、広島に原爆を投下したアメリカ人パイロット、ポール・ティベッツが亡くなった日でもあった。それからというもの、外林は旅をしては学校にも行き、子供たちに話を聞かせている。講演の後、彼らから送られてくる手紙は、外林を喜ばせる。彼らの手紙からは、尊敬の念と、感銘を受けていろいろなことを考えるようになった様子が伝わってくる。「なぜ、人間がこんなことをするのでしょうか?」と彼らは問いかける。あるいは、「あなたの勇気はどこから来るのですか?」と。
行動する勇気。1945年のあの時、外林は怪我を負った友達を病院に運んだが、実家に戻った数日後に亡くなった。一方、学校の瓦礫の下から助けを求める声を無視するのも勇気がいることだった。というのも、ひょっとしたら自分が焼け死んでいたかもしれないのだから、そうせざるを得なかったのだ。
外林はそれらの光景を自分の中に抱え込んでいたが、もはやそれに耐えられなくなった。いまやそれについて語らずにはいられない。それまでは口をつぐんでいたのだが、今この歳になって、過ぎ去った人生の大部分をできるだけ早く整理し、まとまった形で残しておきたいという熱い思いが打ち勝ったのだ。1994年に彼は定年退職し、そこからようやく被爆者となった。自ら切り開いてきた人生について、外林は多くを語ろうとはしない。1965年にベルリンで出会い、1988年に結婚した妻のアストリッドは、仕事以外の私生活や思い出を分かち合える、外林のよき伴侶であり、彼を支え続けている。外林は自分が見たものをプロジェクタで壁に示すことはしない。しかし、何も見せなくても、その様子はありありと目に浮かんでくる。
外林の日記のメモから:爆心地に近づくにつれ、次第にそこはまさに地獄の様な光景になってきた。火傷で腕の皮が剥がれ、手の先から垂れ下がり、粉塵で真っ黒になり、幽霊のようにぶらぶらと歩いている人。子供の死体を抱えて、気が狂ったように叫んでいる人。
外林は父親と一緒に母親を捜しに赴くよりも先に、一家の知人を見つけねばならなかった。外林家に住んでいた沖増である。最初に客人を探すのが日本の礼儀なのだった。彼は近くの川で亡くなっていた。階段には人々が放射線状に倒れていた。
彼かどうかを確かめるため、人をより分けながら下の方に下りて行った。死んだように倒れている人が、みんな生きており、「水をくれ」と足を掴んでせがまれるが、どうすることも出来なかった。
外林はその時泣かなかった。「そんな時間はありませんでしたから」と彼は言う。しかし、川辺で死体だと思っていた人たちが、今でも夢の中で時々彼をつかもうと手を伸ばしてくる。
外林と父親は母親を見つけた。見たところ怪我はしていないようだったが、動くことはできなかった。リヤカーに乗せて、母親を家に連れて帰った。長崎に2発目の原爆が落とされた1945年8月9日、彼女は35歳で亡くなった。父と息子は、母のために棺を作り、火葬に付した。2人がそれについて話すことはその後なかった。
知人や親戚が、爆心地から約2キロの距離で、破壊されずに残った外林の家にやって来た。彼らは怪我をしていないように見えたが、数日後には髪が抜け、歯茎から出血し始め、全員が亡くなった。父と息子は必死に働き続けた。「お米を食べました」と彼は追想する。「でも、一体誰が炊いたのでしょうね?」。何はともあれ母親はもういなかった。
20年後、父親は癌で亡くなった。外林秀人も1945年以降、血液検査を受けており、腸に腫瘍ができたこともある。いつだったか?それは重要ではない。
外林秀人の話は、細部ではなく、大きな全体に向かっている。彼はこう語る。「私は日本人ではなく、ひとりの人間としてお話しているのです」。
(ターゲスシュピーゲル紙 2010年8月5日。翻訳に際しては敬称略)
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今朝も鳴き始めた蝉の声を耳にして、ふと、あの暑い広島の町、呉の墓所の夏の蝉時雨と陽射し、そして「過ちは繰り返しませぬから」の碑文を思いました。愚かな戦争のことを省みたこの言葉は、いま、新たな意味を持って問いかけてくるように感じています。
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Masatoさま
講演記事にて、外林氏が言及している「階段に座った儘、蒸発した人影」に就いて、解説サイトが以下にあります。
これは、住友銀行広島支店の店舗前の石段に腰かけ、開店まで待機中の人が、原爆投下により一瞬にして焼き殺された証拠の「レントゲン写真の一種」とも云える画像です。
【死の人影】 このページの最下段の左側写真です
http://www.chugoku-np.co.jp/abom/04abom/kiroku/index.html
昔は、現場に当時の儘に保存されていたのですが、現在は資料として、保存公開されて居ます。ご関心あれば、どうぞ。
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Masato様
外林氏の証言を可視化した連続画像が、あります。
広島県立宮島工業高校の生徒さん達が作成した、一連のCG画像で、原爆投下の前後を時系列に沿って作画しています。サイトは、以下の通りです。
http://www.urban.ne.jp/home/kibochan/miyakou/cg/dome14.htm
描かれている建物は、今は「原爆ドーム」となっている「廣島県産業奨励館」の、在りし日の原型です。当時のデータに基づき、現場状況を正確に再現描写した画像です。
ご関心あれば、訪問なさってみて下さい。お元気で。
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Daisakuさん
コメントありがとうございました。
>愚かな戦争のことを省みたこの言葉は、いま、
>新たな意味を持って
おっしゃる通りですね。私たちは「平和利用」という言葉の背後にあるものに、もっと早く気付くべきでした。Daisakuさんが最近ブログに書かれていた記事も共感しながら拝読しました。
http://www.oozu.info/blog/?p=138
http://www.oozu.info/blog/?p=139
今回の日本滞在の心残りは、東北に行けなかったことです。チャリティー写真展のことも、機会があればぜひご報告くださいね。
Yozakuraさん
ご無沙汰しています。意義深いサイトをご紹介くださり、ありがとうございました。じっくり拝見したいと思います。
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Daisakuさん
コメントありがとうございました。
>愚かな戦争のことを省みたこの言葉は、いま、
>新たな意味を持って
おっしゃる通りですね。私たちは「平和利用」という言葉の背後にあるものに、もっと早く気付くべきでした。Daisakuさんが最近ブログに書かれていた記事も共感しながら拝読しました。
http://www.oozu.info/blog/?p=138
http://www.oozu.info/blog/?p=139
今回の日本滞在の心残りは、東北に行けなかったことです。チャリティー写真展のことも、機会があればぜひご報告くださいね。
Yozakuraさん
ご無沙汰しています。意義深いサイトをご紹介くださり、ありがとうございました。じっくり拝見したいと思います。
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Masato さま
外林さんへのインタビュー記事の翻訳では、日本語訳文の推敲に相当な時間を投入されたものと推察します。お疲れ様でした。
ただ、長年に亙り外林氏を苦悩させ、悲惨な体験の告白を抑制・抑圧してきた「広島県地方に伝わる、被爆者に対する根強い社会差別」を、貴方は今ひとつ、生活実感として感受し得ていない様子が窺えます。
遠隔地の神奈川県にて生まれ育った中村青年には、無理からぬ事かと存じます。
其処で、貴方の母校の先輩が執筆した長編小説を映画化した作品が、ネット上に分割掲示されて居る事案を、勝手に紹介します。地元出身の作家が、長年に亙り収集した素材を、時間を掛けて作品へと昇華させたものです。
映像となる事で、原文の文字表現が可視化されたため、廣島市周辺の地理風俗や文化的背景に疎い異郷の人にも、地元の雰囲気は、幾分かは伝わるかと思います。
関係サイトは、別便にて案内差し上げます。ご関心があれば、訪問なさってみて下さい。御不用の節は、どうも失礼しました。
お元気で。
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Masato さま
外林さんへのインタビュー記事の翻訳では、日本語訳文の推敲に相当な時間を投入されたものと推察します。お疲れ様でした。
ただ、長年に亙り外林氏を苦悩させ、悲惨な体験の告白を抑制・抑圧してきた「広島県地方に伝わる、被爆者に対する根強い社会差別」を、貴方は今ひとつ、生活実感として感受し得ていない様子が窺えます。
遠隔地の神奈川県にて生まれ育った中村青年には、無理からぬ事かと存じます。
其処で、貴方の母校の先輩が執筆した長編小説を映画化した作品が、ネット上に分割掲示されて居る事案を、勝手に紹介します。地元出身の作家が、長年に亙り収集した素材を、時間を掛けて作品へと昇華させたものです。
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お元気で。
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Yozakuraさん、いろいろありがとうございます。原爆の問題は、子供の頃からかなり強い関心を持ってはきましたが、実感として感じられていない部分は確かにあると思います。教えて頂いた映画、まとまった時間のある時にぜひ見てみます。
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Yozakuraさん、いろいろありがとうございます。原爆の問題は、子供の頃からかなり強い関心を持ってはきましたが、実感として感じられていない部分は確かにあると思います。教えて頂いた映画、まとまった時間のある時にぜひ見てみます。